今、書店には何だかとんでもなくおもしろそうな本が平台に山積みになっている。『T.R.Y.』、今年の横溝正史賞受賞作である。なにしろ帯の煽り文句がいい。主人公は「革命という熱病にうなされる怪男児」だ。
この言葉を見ただけでも、正直、おおっと思った。しかも、
「横溝賞史上、最高傑作!」
との折り紙つき(編集者の情熱を感じる)。これだけ煽られては本を手に取りたくならない方がおかしいというものだ。私も早速読んでみた。あまりに過大な誉め言葉に若干の不安を感じながら……。
結論から先に言うと、これは非常に優れたミステリーである。この内容で一五〇〇円はお得。あまり万人向きの小説というものはないが、この本なら一万人のうち九九九九人くらいは満足させられるはずだ。ただし「横溝賞最高傑作」というのは大袈裟、というかお化粧しすぎの誉め言葉だろう。そういう余計な冠をのっけずとも十分におもしろい作品である。
物語は明治四十四年の三月、上海の刑務所に始まる。主人公は、どじを踏んでくらい込んだ日本人詐欺師、伊沢修。その彼に接近し、出獄の手引きをする大男・関虎飛は、清国政府打倒をめざす中国革命同盟会の幹部。狙いは伊沢の天才的な詐欺の腕だ。革命のためという大義名分のもと、伊沢が引き受けた一大詐欺の顛末は……?
とにかく獲物を狙っての虚々実々の駆け引きが読ませどころである。映画『スティング』を観た方ならご存じの通り、この手の物語はどんでん返しの驚きが命だ。したがってあら筋はあえて気にせず、とにかく読み始めることをお薦めする。伊沢、関の他の登場人物も魅力的であり、その関心だけでもぐいぐい読ませるはずである。
歴史ミステリーのご多分に漏れず、この小説にも歴史上実在の人物が登場する。その中でも有名なのが、陸軍中野学校の創始者である明石元二郎だろう。若き日の明石と妖僧ラスプーチンの闘いを描いたのが山田風太郎『ラスプーチンが来た』(文春文庫)だが、本編でも策士ぶりを発揮している。また旧帝国陸軍が登場する歴史ミステリーというと、伴野朗『五十万年の死角』(講談社文庫)があるが、伴野の小説が北京原人の化石の紛失という歴史上の謎に正面から取り組んでいたのに対し、本書には中心となる謎は存在しない。
どうやら、井上は過去の時代をキャンバスとし、そこに自由な構図の絵を描くことの方に関心があるらしい。そのための時代考証が緻密なのはもちろんだが、そういった「現実」の描写の間に、井上はさまざまな「虚飾」の要素を盛り込んでいる。それを「虚飾」と気付かせないで読者に飲み込ませる技法が素晴らしいのである。
一例を上げると、作中人物の一人が、詐欺のカモに餌を投げる伊沢の手口を評して、「(相手が)ワルツが好きならワルツを踊る、ポルカが好きならポルカを踊る」と呟くシーンがある。それに対し伊沢は、相手がかっぽれが好きなら踊ってやるさ、とうそぶくのである。実はこのセリフ、ある実在の人物からのいただきなのだ。
誰かというと、元AWA世界ヘビー級チャンピオンのプロレスラー、ニック・ボックウインクルである(知らない人はすごくテクニシャンのアスリートを思い浮かべてみてください)。これは、彼がチャンピオンとして、どんな挑戦者が来てもそのスタイルにも合わせ勝つ、という心構えを示した言葉である。それを明治の人間に語らせるセンスが素晴らしい。ほとんどの読者が気付かないところに、同様の技巧が凝らされているに違いない。これは油断がならない才能なのだ。おそらく井上は、どんなキャンバスを使っても、思い通りの絵を描くことだろう。