芸人本書く派列伝returns vol.21 レツゴー正児『三角あたまのにぎりめし』

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

笑劇の人生 (新潮新書)

一つの家から二人以上芸の道に入る者が出るというのは大変なことである。

若いうちはなんとも思わなかったが、いざ自分が親の立場になり、目の前にまもなく成人を迎えようという子供がいるとさすがに思うところがある。といっても歌舞伎は世襲が基本であるし、五代目古今亭志ん生の長男が十代目金原亭馬生になり、次男が三代目古今亭志ん朝になった、などというのは初めから世間が違う話題である。

ここで言うのは、ごく普通の家庭から二人以上の芸人が生まれたような例であって、そうなると私は、ルーキー新一とレツゴー正児のことを思い浮かべずにはいられない。

ルーキー新一といっても、私はその全盛期をほとんど知らない。実弟・正児と組んでしろうと演芸コンテストの番組で漫才を披露したことで芸界入りの糸口をつかみ、黒崎清二こと後のルーキー清二とのコンビで売り出して、吉本興業に引き抜かれる。一九六五年一月から吉本新喜劇の座長格となるが、わずか一年も経たないうちに白羽大介、森信らを連れて独立することになり、大阪・千日劇場を根城にルーキー爆笑劇団を旗揚げした。ところが一九六八年に劇団員絡みの恐喝事件に巻き込まれ、翌六九年には本拠地である千日劇場が閉鎖されるなどの不運が続き、以降、表舞台にはほとんど出ることがなく一九八〇年に没した。私は一九六八年生まれなので、完全に間に合わなかった芸人なのである。

ルーキー新一こと直井新一とレツゴー正児こと直井正三は香川県琴平市の生まれだ。一家は祖父と両親、そして四人の兄弟姉妹の七人である。新一は自分のことを書き残していないが、弟の正児には『三角あたまのにぎりめし』(一九八三年。ワセダ企画)という半生記の著書がある。以下はそこから、直井家に関することを抜き書きしてみたい。

正児が小学四年生、新一が中学三年生のときに父親が倒れ、大黒柱を失った一家のために、兄弟が大阪で訪問販売をして生計を助けたことがある。正児のあかぎれだらけの手を見せて同情を引くやり方だから、いわゆる泣き売である。正児が高校に入学した直後、今度は母親が病気になって転地療養をしなければならなくなった。そのため正児は三ヶ月でせっかく入った高校を辞め、父親が親方を務める鉄工場で新一と共に働くことを自ら選んだという。このときは父と新一が組み、正児が助手を務める形で作業が行われた、後にコンテストで二人が勝ち抜けたのは、訪問販売といい鍛冶屋といい、このころから息を合わせることが自然に出来ていたからではないか、などと夢想するのである。

父親は正児が高校二年生のときに亡くなった。すでに新一は芸人としてデビューを果たしていたが、その時点では正児は単なる漫才好きな高校生である。卒業後、正児は関西汽船で会社員をしていたが、三年勤めた後に辞表を書き、兄と同じ芸人を目指す。このとき母親は、正児の将来を心配して胸を痛めたという。

あのときの母の言葉を思い出す。

「おまえは無理や。新一は順応性があり、融通がきく。上の者が黒いものを白やというても、『白っぽいですね』と話を合わせられる男や。そやけど正三(私の本名)おまえにはそれだけの融通というか余裕があらへん。いうたら一徹者や。サラリーマンのとき、どうやったん。関西汽船で客相手に、上司相手にしょっちゅうけんかしとったやないか。そんな性格では芸能界ではやっていけへんで、おまえが芸人になるのんやったら心配で見れられてへん。なるんならお母ちゃんが死んでからなって、生きてるうちは心配ささんといて」

しみじみといわれたものだった。

母親の言葉にあるとおり、正児は後のレツゴー三匹での顔からは想像が難しいような正義感であり、かつ頑固者だった。高校を入学三ヶ月で辞めて働き始めたのは家族思いの気性がなせる業だったが、母親が快癒して帰ってくると、二年遅れで同じ市岡商業高校を受験して入り直す。他の学校に行く選択肢もあったが、そうすれば制服その他をまた買い直さなければいけなくなる。そんな負担はかけさせられないと、あえて二年上にかつての同級生がいる高校への再入学を選んだのである。高校では剣道部に演劇部、校外では週に五日、兄・新一の経営する珠算塾で講師として働いて学資を稼ぎと忙しく動き続けた。実は学業は優秀で、小学校から高校までずっと級長に選ばれ続けもした。その性格が周囲にも愛される、優等生だったのである。ただ、漫才も無性に好きだった。

ここからは正児のみに関することを書く。関西汽船を一九六四年の三月に辞めた正児は、信じられないことに同年四月上席の梅田花月でプロの漫才師としてデビューを果たす。やはりルーキー新一の実弟であるということが後押しをしてくれたのではないか。コンビ名は「やすし・たかし」、たかしが正児で、やすしは後の横山やすしである。「やすし・たかし」は人気も出てきたが、一年足らずで解散する。直接の原因は、雄琴ヘルスセンターの仕事で、雨の中正児が先輩芸人の「あひる艦隊」の荷物を運んだのに、やすしが手柄を奪い取る形でいい顔をしたからだという。

私はつくづく思った〈まあ、この男はなんと要領のええ男やろ、こんな男といっしょにこれからの長い道のり、男一生の仕事をやっていけるか〉私も若かった。やすし君ぐらいの調子の良さは、この世界ではある程度必要なのだ。要領の悪いドンくさい男では、生存競争で取り残される。それをいちがいにやすし君を悪と決めつけた私も修業が足りなかった。

関西汽船を喧嘩で辞めた気性がここでも発揮されたわけである。その後は同じ吉本興業でトリオ漫才のスリージョークスに加入する。リーダーのホップを名乗ったのは一世を風靡した平和ラッパ・日佐丸で何代目かの日佐丸を名乗った人で、ジャンプがコメディアン・和田志朗、ステップが正児である。ここで、やすし・たかし時代とは違うトリオ芸のコツを掴み、将来自分がメンバーを選んで漫才をやるならトリオがいいと考えるようになる。漫才は二人の対決だが、トリオであれば芸のパターンが広がるからだ。「一対二の対決」「この中の一人が裏切って一のほうへつく、寝返りのおもしろさ」「ひとりひとり別々で対決する、三つどもえのややこしさ」「三人が順番にぐるぐる回ってやっていく交代の変わり身」「三人いっしょにひとつのことに取り組む団体芸」と正児は分析する。近年のトリオ芸人のパターンもこの中にはすべて収まるのではないか。

スリージョークスがホップの病気のために解散した後は、正児は吉本新喜劇の座員として芝居をしていたが、前述のごたごたがあって兄・ルーキー新一が退社する。正児に脱退の意図はなかったというが、兄弟ということで連座させられ、自ら退社してルーキー新一爆笑劇団の旗揚げに参加するのである。このときに後のレツゴーじゅんこと渡じゅんと出会っている。この劇団で正児は理想のスタイルである「レツゴー三匹」を結成する。メンバーは、正児、じゅんの他、後に第二次「すっとんトリオ」に参加することになる森一修、「レツゴー三匹」という名前は、三人が結成前にあれこれ相談しながら飲んでいた居酒屋が「三匹」だったからで、その上に正児が付き合っていた女性のアイデアで「レツゴー」を乗せた。

ルーキー新一爆笑劇団が消滅後、一修も抜けたレツゴー三匹はいったん解散の危機を迎えるが、コミックバンド「あひる艦隊」を抜けた永原誠ことレツゴー長作を新メンバーに迎えたことで蘇生する。長作の師匠にあたるタイヘイトリオの洋児が松竹芸能で顔が利いたことから救われ、再起が可能になるのである。正児はこのタイヘイ洋児を生涯の恩人と考え、当時の芸名を正二から改めている。ルーキー新一の問題で自らも損失を被ったにもかかわらず、「兄は兄、弟は弟」としてレツゴー三匹を弟子として迎え入れてくれたからだ。

タイヘイ洋児は人気絶頂のときに失踪して以降は行方不明なのだが(『三角あたまのにぎりめし』によれば「キャバレー経営と女性で失敗」したため)、温厚で下の者には慕われる人柄だったらしい。ただ麻雀好きで、レツゴー三匹がNHK漫才コンクールに出たときも、弟子の晴れ舞台を見にいかず、出陣の報告を雀荘で受けた。しかしそれはポーズで、実際には三人が会場に出かけると、後から車を飛ばして駆けつけ、結果を確かめに行ったという。そのとき出場していたチームのうち、最終まで残った中にトリオはレツゴー三匹しかいない。結果発表の際、舞台にトリオ用の三つ組のトロフィーが置かれているのを確認すると、洋児は雀荘へと取って返した。

われわれは意気揚々と先生のいるマージャン屋へ報告にいった。

「先生、とりました!」

「そうかよかったなあ、リーチ!……当たり、親マン、一万二千点」……。

そんな洋児先生だった。

振り返ってみると、ルーキー新一の後を追うようにして芸界入りしたレツゴー正児は、十代のころの兄との関係からコンビの呼吸を学び、話題性という意味でも恩恵を受けて恵まれた芸人生活を始めている。しかしそのルーキー新一という名前の大きさが災いして、一旦は挫折しかけているのである。その窮地を救ってくれたのは肉親ではなく仲間であり、先輩の芸人だった。このへんに兄弟で芸人として成功することの難しさがあるように思う。ルーキー新一の全盛期とレツゴー三匹のそれは完全にずれていて、一九七〇年代以降はまったく交わっていないのである。

もう一冊本の話をしたい。最近、八十四歳の芦屋小雁が初の自伝『笑劇の人生』(新潮選書)を上梓し、話題になっている。芦屋小雁は本名西部秀郎、二歳上の兄芦屋雁之助(本名・清)、六歳下の雁平(本名重一)と共に息長く活躍してきた、関西を代表する喜劇俳優の一人である。看板が大きくなっても助け合ってやってきたという点では、兄弟芸人を代表する存在かもしれない。なにしろ芦屋雁之助の当たり役である「裸の大将放浪記」は、兄の死後は小雁が代わって山下清を演じ、二〇一三年には雁之助版から数えて百回目になる記念公演を行っているのだ。『笑劇の人生』によれば、晩年の雁之助は病気の影響もあって長年属した松竹芸能を辞め、小雁の個人事務所である「小雁倶楽部」に属していたという。

小雁が人気者になったきっかけは、草創期のテレビドラマ「番頭はんと丁稚どん」である。同番組は毎日放送が一九五九年三月から放送したものだが、セットを組む予算がないために難波の映画館・南街シネマを借りて、客を入れた上での公開生放送を行うという画期的なものだった。最初期のキャストは、番頭役に東京から大阪に来ていた佐々十郎、丁稚役が小雁と大村崑、茶川一郎だった。ところが佐々が、番頭が儲からないいじめ役であることに難色を示して降板する。また後には、番組の制作が東宝から松竹に移ったことから、前者に属していた茶川一郎も出演できなくなってしまうのである。その代わりに番頭と丁稚に入ったのが雁之助と、当時は普通の勤め人だった雁平だった。トラブルが兄弟競演の機会を作ったことになる。

西部家は京都で型友禅染の工場を経営していたが、戦争のために物資が手に入らなくなって休業、もともと芸能好きだった父親が若松屋喜正という名をもらって漫才師となり、地方巡業や満州慰問などで旅をするようになる。雁之助もそれに連れられて行くことがあり、見様見真似で芸を習ったのである。小雁は小学校を中退した後にさまざまな職を経て商業美術を学び、映画の看板を描く仕事をしていたところで、父と雁之助が旅から帰って来る。そして父親から、兄弟で漫才をすることを進められたのである。

最初の芸名は「若松ただし・きよし」、金がなかったために、紙でできた背広を着ての舞台であった。その後、上方漫才の長老であった芦乃家雁玉に弟子入りして「芦乃家小雁・雁之助」となり、このコンビで戎橋松竹に出ているときに劇作家の花登筐に芸を見初められる。そこから運が拓け、花登が後に手掛ける「やりくりアパート」「番頭はんと丁稚どん」などのテレビドラマ出演に結びつく。そして一九五九年には花登が中心となって劇団「笑いの王国」が旗揚げされ、雁之助と小雁はその主軸になっていく。

駆け出し時代は雁之助・小雁・花登で共同生活を送っていたほどの仲だった三人だが、その「笑いの王国」で運命が分かれる。人気の絶頂期に内紛の種が芽生えたのである。花登の心ない貼り紙に小雁が激怒するという通称「貼り紙事件」が起きて、劇団は解散してしまう。『笑劇の人生』によればこれは、雁之助の芝居を花登が揶揄するような内容のもので、小雁は、なぜ直接本人に言わないのか、と腹を立てたものだという。このあと芦屋兄弟は劇団「喜劇座」を旗揚げ、東宝が専門の劇場を作るというのに乗って松竹を離脱した形なのだが、その約束は果たされず、結局劇団は一九六九年に解散して、兄弟は以降別々の道を歩むことになる。

小雁は二歳上の雁之助を芸の「師匠」でもあると言う。芸能界の決まり事に無頓着であり、喧嘩別れした花登筐とも声がかかれば一緒に仕事をする小雁に対して、雁之助は上下の順を守り、自分の位置を厳格に決めてからではないと動かない。その態度に学ぶことも多かったのである。故・藤田まことと兄弟は、売れない「若松ただし・きよし」の時代に出会い、琵琶湖遊覧船の上で「早よ、有名になろな」と励まし合いながら弁当を食べたという仲である。その藤田とも雁之助は共演をしようとはしなかった。

藤田まことにしても、売れっ子になってから、雁ちゃんに自分の舞台を演出してほしいとか、脚本を書いて欲しいとか、共演して欲しいとか、ぼくを通してよう言うてきたけど、雁ちゃんは「そんなもん出れるかい」と、なかなか首をタテに振らんかった。デビュー前の無名時代、彼は雁ちゃんを「大きい兄ちゃん」、ぼくを「小ちゃい兄ちゃん」と呼んでた。そんな時代を知ってるから、自分の方が先輩やというライバル意識があったんやろな。そやから、ぼくだけが出ることがようありました。

そういえば、朝日放送制作の時代劇〈必殺シリーズ〉において、雁之助と藤田は共に何度もレギュラーで出演をしていながら、互いのドラマにゲスト出演を果たしたことが一度もなかった。組み合わせとしてはあり得たのになぜか、と思っていたが、おそらくはこのへんのことが理由だったのではないだろうか。ちなみに小雁は、一九八二年の大晦日に放映された「マル秘 必殺現代版 主水の子孫が現代に現れた 仕事人VS暴走族」に重要な役どころで出演している。このへんの構わなさが、八十四歳の現在までつつがなく芸能生活を送れてきた、元気の秘訣なのかもしれない。

本書は芦屋兄弟の関係だけに光を当てたものではなく、三回結婚して二回離婚した私生活の話や、あの小林信彦も認めたホラー映画マニアのシネマディクトぶりなどについても語られている。元祖眼鏡っ子ともいえる斎藤とも子との二十八歳の年の差婚は当時話題になったし、映画「スターウォーズ」のフィルムを日本で初めて上映したという伝説についても言及がある。

個人的には「東西お笑い考」の章が興味深かった。板の上で客を見ながら進める笑いのコツや、東西の笑いについて質の違いを述べたくだりには傾聴すべき点が多々ある。

関西のお笑いは、関西弁という言葉の面白さで成り立っていて、一方、東京のお笑いの面白さは動きの面白さ。今でもその基本は変わらんと思いますが、東京は形を作っておもしろくする。それに対して、関西は言葉で面白く言う。

自身が何度も出演しているNHKの朝ドラをまったく見ないというのもおもしろい。「テンポが遅くてかなわん」「何だかずっと説明的な回し方で、普通の年寄りにはそのテンポがいいのかもしれんけど、ぼくはダメ」と切って捨てるのである。好きなのは「24 TWENTY FOUR」や「ER緊急救命室」のようにテンポのいい海外ドラマ、というのがいかにも映画マニアらしい。

今回採り上げたレツゴー正児と芦屋小雁の共通点は、吉本興業に属していたことがありながら、短期間で辞めていることである。児の場合はルーキー新一を巡る政治的な駆け引きの犠牲になったのだが、小雁は兄・雁之助と共に目指しているものが違ったのが原因である。戦前から続いている古い笑いのスタイルは兄弟にはなじめず、洋画のコメディに学んだり、社会風刺にペーソスの要素を取り入れたものを目指したりと、新しいものを作り出す方に志は向いていた。兄弟は松竹新喜劇からも声をかけられているのだが、藤山寛美とは同じところに立てない、とこれも断っているのである。もし花登筐との「笑いの王国」が分裂しなかったら、「喜劇座」が成功していたら、芦屋雁之助・小雁の兄弟が大阪の笑いを変えていたのかもしれないのである。過去をのどかに語る言葉の後ろにそんな妄想をしながらこの本を読み終えた。

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存