小説の問題vol.35 「ふしぎとばらばら」東郷隆『鎌倉ふしぎ話』・伊坂幸太郎『オーデュポンの祈り』

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鎌倉ふしぎ話 (集英社文庫)

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

この欄で前に書いたことがあるかどうか忘れてしまったが、私は学生のとき落語研究会にいたことがある。

その会では、はじめにごく短い小噺を習い、次にもう少し長くて起承転結のある小噺、それから「寿限無」や「道具屋」みたいに簡単な噺を始める、といった稽古のつけ方をしていた。「夕立屋」というのが、その二つめの噺である。

夏の暑い盛り、ご隠居が縁側であるかなしかの風を求めて涼んでいると、商人がやってくる。聞けば夕立屋だとか。早速ということでご隠居は男に頼むが、あっという間に黒雲が湧き起こり、埃を洗い流す雨が降ってきた。たいそう驚いたご隠居は、男の正体がただものではないだろう、と目利きをつける。案の定、男は天に住む龍であった。

隠居「なるほど。龍ならばこのくらいのことは朝飯前だろう。お前さんを龍と見込んで頼みたいことがある。あたしは夏の暑さは苦手だが、冬の寒さにも滅法弱い。そこで冬の寒い時分に来て、暖かくしてもらうわけにはいかないだろうか」

男「いや、それはあたくしにはいたしかねますんで……、代りにせがれの子龍(コタツ)が参ります」

という、まあ他愛もない噺である。実は「ゆうだちや」という噺には別の形があって、江戸時代の『御伽噺』所載のそれは、東郷隆によれば「白雨屋」と字を当てるらしい。白雨屋が来てお湿りを降らせるところまでは同じだが、最後に女の子が出てくるところがちょっと違う。ちろりんとした可愛らしい噺である。どんなオチなのか気になった人は、東郷の『鎌倉ふしぎ話』を読みましょう。一九九六年に刊行された『蓮ちゃんの神さま』を改題して文庫化したもので、中の「白雨」という一篇がそれである。

本書は題名の通り、鎌倉を舞台にした小説を収めた短篇集で、全部で九編の奇妙なお話が集められている。なになに小説という呼び方をふるのにちょっと困ってしまうところがあるのだが、一応怪談の範疇に入るだろう。鎌倉に住む誰それが語った、という形の文体であり、口承文芸の雰囲気が意識されている。小噺がまくらにふられて、落語を連想するような書かれ方であるのもそのためだろう。収録作の中にはヌケヌケとした味のものもあり、例えば牛丼の屋台を引く女将が何か人ならぬものに出会ったエピソードを語る「屋台の客」などは、志ん生の語る「権兵衛狸」のようである。

楽しいのは鎌倉を舞台にして季節の風物、風俗が闊達に描かれていることであり、鎌倉っ子の意気を描いた「スコーネの鰻」などを読むと、鎌倉の夏の情景がありありと目の前に浮かんでくるのだ。また、中国からやって来た留学生の目を通じて同じ鎌倉の夏を描いていく「蓮ちゃんの神さま」のような小説もあり、さまざまにアングルを変えてこの町の風情が紹介されているのである。「面かぶり」「木箱」「蜜柑」といった小説は、太平洋戦争の時代を背景にしており、時間的な厚みも加えられている。

小説を読む楽しみというのは、こういうことを言うのだろうな、と痛感させられる短篇集である。全体の雰囲気もさることながら、細部の造作もしっかりしているため、世界観がどこかで浮き上がることなく、気持ちよく読み進めることができるのだ。博覧強記をもって知られる東郷ならではで、「小物細工の家」における小物細工の技法、「オアシスの声」における自動販売機についての蘊蓄など、さまざまな知識が、うるさくならない程度の味つけで配置されている。宮武外骨が天然健胃剤として陳皮(ミカンの川)を愛用した、などという知識はどこから仕入れてきたものなのだろうか。

東郷といえば、先頃『花はどこへ行った』(マガジンハウス)という連作小説集が刊行されたが、これはなんと官能小説集である。官能小説といっても、引っ越し荷物の荷ほどきができなくてウロウロしていた男が、街であれやこれやの出会いをするうちにいつの間にかアダルトビデオの男優として出演することになっていた、というようなヌケヌケとした展開のもので、単なる煽情小説とは一線を画した出来のものであった。

『鎌倉ふしぎ物語』を読むと、『花はどこへ行った』の不思議な雰囲気の由来が判ってくるはずである。気になる人は二冊を併せ読むのもいいが、そうするとたぶん著者の他の作品も必ず読みたくなるはずである。厚みも手頃なので、今月他に読むものを決めていない人は、とりあえず『鎌倉ふしぎ物語』を手にとるといいだろう。

で、「ふしぎ」といえば今月はなんとも不思議な小説を読んでしまったのである。いや、しまったというのは著者に失礼か。「人語を操り、未来を予見するカカシのいる島で起きた連続殺人」という不思議な帯のコピーに惹かれて本を手に取ったのだから、責任は自分にあるのである。しかし、それを判っていながらも予想を超えた「ふしぎ」がこの作品にはあった。伊坂幸太郎『オーデュポンの祈り』、これが五回目の(そして最後の)新潮ミステリー倶楽部賞の受賞作である。

くだんの島の名は「荻島」といって、仙台港の沖合いにあるらしい。驚いたことに幕末のころから百五十年近く「鎖国」体制を保っていて、ほとんど外界と交流をしていないのだという。それなのに、住民は本土の人間と変らない洋装であるし、なんと道路にはバスまで走っている。いったいどういうことか。

その理由は二つあって、一つはこの島が仙台藩の支倉常長によって拓かれたということである。ご存じの通り常長は江戸時代初期に、通商を求めてローマまで行きながら、日本が突如鎖国体制に入ったために失敗して戻ってきた人物である。その常長が荻島でこっそりヨーロッパとの交流を行っていたのだという。だから島民が洋装であるのも当然のことなのだ。

もう一つの理由は、島民の中で唯一本土と行き来をして生活物資を入手している者がいるということ。その男、轟が仙台で拾ってきた若者が、本書の主人公伊藤だった。伊藤はコンビニエンス・ストアで強盗を働いたものの未遂に終わり、逮捕されそうになって逃げ出してきたところだったのだ。

このように、一見矛盾だらけ穴だらけに見えるのが本書の世界観である。例えば、島の人口と生産のバランスはとれているのかとか、外界から物資を購入するための貨幣はどのように貯蓄されているのかとか、とにかくそういった細部の造作がまったくない。そもそも重工業設備のない島で独自にバスを組み立てることなど、本当に可能なのか。『鎌倉ふしぎ物語』とは対称的に、この小説の語りはかなり場当り的である。

その極みが「言葉をしゃべり、未来を予測できるカカシ」の存在である。優午という名のそのカカシは、島が鎖国に入った百五十年前からずっとそこにいたのであり、未来を予測できることから島民の精神の支えとなってきたのだ。ところが、伊藤が島にやって来てしばらく経ったとき、この優午が何者かによって解体され、殺されてしまうのだ。未来を予測できるはずの優午が、なぜおとなしく殺されてしまったのか?

その謎の関心を中心にして物語は進んでいくのである。先述したように全ては場当り的で、ちぐはぐ、ばらばらな印象があるのだが、驚いたことにそれが一転に収斂する瞬間が訪れる。語りがちぐはぐであるゆえに、その驚きはなおさら大きい。この効果は決して計算したものではないと思うが、そこに一瞬作者の顔が覗けている。テーマに向けて最大限の効果を上げようとして必死になっている顔である。そこに小説読みはついついほだされてしまうのだ。

優午の存在にはミステリーにおける探偵像が重ね合わされているのだろう。事件の進展を見守るだけで傍観者の立場を貫く探偵と、未来を予見しながらそれを主体的に変えようとはしないカカシと。それはいかにもごつごつとして無器用なメタファーの重ね方であり、ミステリー的な決り事にベタに寄りかかったモチーフである。そこを脱したときに、この作者は大きく成長するだろう。

たまには無器用な小説を読むのもいいもの。騙されたと思ってお試しあれ。

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