※またもや1号分逸失していた。一応お断りを。
この号がお手元に届くときには、もう新年である。今年もよろしくお願い申し上げます。
さて、二〇〇二年を迎えるにあたり、密かに期したことがある。それは日記をつけようということだ。文章で糊口を凌いでいる者として恥ずかしいが、日記に関して、私はこれまで三日坊主の域を脱したことがない。必ず四日目になると不測の事態が起き、何者かによって、記帳が阻まれるのである。これも神の摂理とこれまでは諦めてきたが、もう一度だけ悪あがきをしてみることにした。さて、どうなることやら。同じような決意を持たれたご同輩、いかがですか?
自分の日記をつけるのは下手だが、他人の日記というのはこれほど面白いものはない。洋の東西を問わず、日記文学というものは旧くからある。だが、私が興味を抱くのは、死に直面した人の書く日記である。近くは、昨年物故した山田風太郎の晩年の著作、そして少し溯れば、我が尊敬する正岡子規の『病床六尺』『仰臥漫録』といった著作が特に胸に迫るものがあった。
これらの記録には、容赦なく迫る死のさだめをつきつけられた者のみが抱く、言い様もない悲哀がある。そしてその上に、生死の境地を超えた諦観が生まれ、さらには自分というものを突き抜けた、透明なユーモアが醸し出されている。
しかしなぜ、人間はそこまで追い詰められて、なお日記を書こうとするのか。
私は、明らかに後日、他人に読まれることを、予想し希望し、これが何らかの意味で人類に役立つことを願っている。自分というものを見とめて貰いたい、という欲望もたしかに含まれている。とは言え、そんな機会は甚だ稀れであって、大抵は私の死と共に、無意味な紙屑となること、これも予想している。
これは、徳川夢声『夢声戦争日記抄』からの引用である。夢声はご存じの通り、活動写真の弁士として名を上げた人物であり、映画がトーキーの時代を迎えた後も、俳優として、あるいは漫談家として大いに人気を得た。随筆の分野でも名文家として知られるが、特に対談のホストを勤めさせると、比肩する者はなかった(宮本顕治との対談がどこかに残っていたと思うが、これが宮本かと思うほどに陽気な対談である。ホストの腕だろう)。
『夢声戦争日記抄』は、その夢声、一九四五年の日記の抄録である。四月から八月、本土爆撃が始まり、敗戦を迎えるまでの夢声の心境が綴られている。
この年夢声は五十一歳。戦地に赴くことができるわけでもなく、ただその話芸をもって国民の士気を鼓舞し、憂愁の思いを慰めるのみである。したがって、各地に慰問旅行にも遣わされる。八月の慰問旅行では、危うく死ぬところであった。慰問先の豊川工廠が爆撃され、跡形もなく無くなってしまったからだ。中途で寄り道をしていた夢声は、すんでのところで難を逃れる。
そんな波乱万丈の日ばかりではなく、無為に過ごす日々もある。そんなとき、自家菜園に肥をまき、自宅の屋根に金網を張り(南瓜の蔓を這わせるためだ)、庭に犬小屋を埋め(空襲に備え、家財道具を非難させるためだ)、なんとか手に入れた酒で晩酌をする。本書は、敗戦の年に銃後で暮していた人々の生活を知るための好資料である。
特に迫真的なのは、八月六日、広島に原爆が投下されてから敗戦に至るまでの数日間の記録である。決定的な戦力の差をつきつけられ、覚悟の臍を決めた夢声の筆は、急速に結晶度を高めていく。
神国日本に、この兵器が与えられなかったことは、日本が神国でもなんでもなかった証拠か、それとも日本の神は、斯ういう兵器をお好みにならない証拠かであろう。(八月十日)
家長のつとめとして家族を郊外に批難させた夢声は、交戦中は決して行わなかった戦局分析を記し始める。しかし、その行動は実に淡々としたものなのだ。
風呂でも焚こう。火を燃やすことは心が開けるものだ。なるべく上等の薪は使わずに、廃物で見ずを温めよう。沸かなくても宜しい。ぬるま湯で沢山だ。(八月十三日)
そして迎えた八月十五日。玉音放送を聞いた夢声は、帰宅した妻子とともに「リプトンの敵性紅茶を入れ、ヤミの葡萄糖の塊りを割り、時ならぬお茶の会」を楽しむ。違う風が吹き、すべては変わり始めたのである。いずれ乗り込んでくるであろう占領軍の脅威に怯えつつも、ただひたむきに生き、家族を守ろうと決意する夢声の姿は、凛として見事である。また、未来を見据える目も確かだ。例えば、原子爆弾についての考察。
自由の国アメリカの事である。早晩ギャングがこれを手に入れるであろう。これさえあれば、数十人のギャング団が、優に一国の政府に対抗出来る。両方でピカリを用い、両方無くなるという、大喜劇の一幕が、見られるかもしれない。(八月二十四日)
一九七一年に没した夢声はついに見ることはなかったが、今アメリカが直面しているテロリズムの危機が、原子爆弾開発に象徴される軍備拡大の副産物であることは、誰もが知るところだろう。
さて、敗戦を迎えた日本人がすべて変わったわけではない。中にはまるで変わらなかった人間もいるだろう。いや、それ以前に戦争自体が、まったくその人間に影響を及ぼさなかったと言うべきか。
多々良勝五郎と沼上蓮次。筋金入りの「馬鹿」である。なんの馬鹿かと言えば、「妖怪馬鹿」なのだ。妖怪小説でおなじみ京極夏彦の進作は、連作中篇集『今昔続百鬼』。この二人の妖怪馬鹿が主人公である(そういえば、『夢声敗戦日記』の解説は、これまた妖怪漫画家の水木しげる)。
二人が出会ったのは戦前のこと。在野の研究家として(といえば聞こえばいいが、要は単なる物好きだ)民俗伝承や迷信の類に関する同人誌を主宰していた沼上は、同じ病を持ち、しかも数段進行が深まっている、多々良勝五郎に出会う。その馴れ初めも「馬鹿」としかいえないもので、なんと多々良が柳田國男の講演会場に押しかけ、議論を吹っかけようとして制止されているところで、沼上たち同人の一行と出会ったのである。
実は多々良の姓であるタタラとは、古代の製鉄に用いられた装置の名称である。日本各地に伝わる「一つ目小僧」の伝承は、この古代製鉄を行っていた「山の民」と密接な関連がある、と論じたのは柳田國男だった。「一つ目小僧」の独眼は、裸眼で強い火を見続けたために、視力が損なわれたものであり、隻脚はふいごを踏み付ける足が発達したことを指している。その説に多々良勝五郎ははまり、「一つ目小僧」研究に耽溺するあまり、妖怪の世界に耽溺していったというわけだ。もっとも当の本人である柳田國男は、のちに「常民」研究に傾き、妖怪研究を捨て去るわけであるが……。
この二人、戦後の混乱にあっても一向に「妖怪馬鹿」の熱が冷めることがない。文献研究だけでは飽き足らないと、ついにフィールドワークにまで乗り出したのだから、ことである。各地にまつわる伝承を求め、放浪の旅。資金を使い果たして途方に暮れるなどは日常茶飯事で、ひどいときには雪山で遭難、死の危機に瀕するときさえある。二人の中で主導権を握っているのは多々良勝五郎ことセンセイの方だが、この人物、雑学と妖怪に関しては該博な知識を誇っているものの、生活に役立つものは皆無とあって、その猪突猛進に付き合っていると、本当に危険なのである。語り手を務める沼上も、始終憤慨のし通しだ。
本書には彼らの四つの冒険譚が収められている。モチーフとされているのは鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」。妖怪という現象が自然発生的なものではなく、人間の文化の所産である以上、妖怪それぞれの成立には、さまざまな人間の営みの側面が密接に関わっている。中には驚くほど抽象度が高く、洗練された一面さえあるのだ。本書で京極が展開している言説の数々を読めば、妖怪がすべて泥臭い民俗の所産であると考えるのは誤りであることがよくわかる。
手練の作者の、ひねったウィットとともに、しばし妖怪の世界を堪能されたい。京極夏彦初心者にもお薦めの一冊である。
(初出:「問題小説」2002年1月号)