芸人本書く派列伝returns vol.23 徳川夢声『話術』

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話術 (新潮文庫)

昨日は新宿二丁目にいた。ラーメン屋でビールを飲みながらぼんやりとテレビを観ていたら、阿川佐和子が出てきて、インタビューの名手として話をしていた。途中で店を出てしまったので、そのあと何を話していたのかは知らない。

「週刊文春」の「この人に会いたい」ではもう1500人に話を聞いているという。現在進行中のインタビュー連載としては最長のはずだ。その「この人に会いたい」に比肩するものとして名を挙げるべきなのが、1951年から足かけ8年にわたって「週刊朝日」で連載された対談「問答有用」である。ホストを務めたのは漫談家・徳川夢声だ。

この連載は全10巻で朝日新聞社から単行本が刊行されているのだが、それ以外に私家版が2巻あるという(夢声研究家の濱田研吾氏のツイッターに教えられた)。残念ながらそれらはすべて絶版で、傑作集として出た朝日文庫全三巻も同様、ちくま文庫から出た全一巻の『問答有用 徳川夢声対談集』でわずかにその魅力の片鱗を知ることができる。編者は阿川佐和子である。

徳川夢声を芸人の系列で語ることにはいささかの戸惑いもないが、存在が大きすぎてその範疇にすべてを収めることは難しいのもまた事実である。

よく知られているように活動の原点は活動写真の弁士であった。やがて映画が無声から有声の時代を迎えると、漫談家に転身する。その名を全国区としたのは1939年からラジオで始めた吉川英治作『宮本武蔵』の朗読である。『宮本武蔵』が流れる夕刻には銭湯から人影が消えたという。同様の逸話は戦後の『君の名は』でも残されているが、娯楽番組の放送が与える影響がいかに大きいか、それを世間に知らしめた初期の功労者であることには間違いない。

第二次世界大戦終了時でもう50歳であったが、ラジオ「話の泉」を始めとするレギュラー番組への出演で多忙を極めた。注目すべきは旺盛に文筆活動も行った点で、「九字を切る」その他の作品が第21回直木賞の候補になっている(1945年。この候補作の調査については『直木賞物語』著者である川口則弘氏のサイト「直木賞のすべて」に詳しい。http://prizesworld.com/naoki/kenkyu/kenkyu_21TM.htm)。青島幸男が『人生万事塞翁が丙午』で受賞を果たしたのが第85回(1981年)、同じく放送作家出身の野坂昭如が「アメリカひじき」「火垂るの墓」で賞を獲得したのが第58回(1967年)だから、大きく先んじていたことになる。そうした意味でも徳川夢声に元祖マルチタレントの称号を捧げるのは決して的外れなことではない。

前述の『問答有用』が始まった1951年の時点ですでに57歳、この連載は夢声にとっての最後の代表作となった。対談とは言うものの夢声は常に聞き役であり、相手の知られざる逸話や見えざる側面を引き出すことに注力していたように思う。そもそも夢声こと福原駿雄は本来芸人志望ではなく、府立一中(現在の都立日比谷高校)から旧一高、つまり帝大進学を目指す秀才だった。ところが二度続けて受験に失敗したため、子供時代から親しんだ落語家になることを考えるようになる。その目論みは身内から芸人が出ることを嫌がった父・庄次郎によって反対され、くらがりで顔が出ないならばよかろう、ということで弁士に落ち着いたのである。弁士から漫談家の転身も映画産業の運命ゆえに受け身、つまり自ら強い意志を持って人生の針路を決めるようなことが無かった人でもあった。『問答有用』連載もまた、週刊朝日編集長に就任した扇谷正造の仕掛けである。

元祖マルチタレントというありようもそうした生き方の所産かもしれない。だが逆に言えば、置かれた場所で咲け、囃されたら踊れ、という受け身のすこぶる巧い人でもあった。「話を聞く」という『問答有用』における役割は、そうした夢声にとっての天職でもあったことだろう。

前置きが長くなった。今回紹介したいのは徳川夢声が1947年に秀水社から上梓した著書『話術』である。このたび新潮文庫に入り、15年ぶりに復刻された。

『話術』は「ハナシの専門家」である夢声がそれを分析し、一般向けにわかりやすく解説した実用書である。ハナシを「日常話」と「演壇話」の二つに大別し、前者には「座談」「会談」「業談(商談)」、後者には「演説」「説教」「演芸」を含めた。演芸のハナシ方について触れた「芸談」は珍しくないし、一般向けに人間関係を円滑にするためのハナシ方を教えた本もしかりである。『話術』の唯一無二である点は、その両方の指導者として「ハナシのプロ」としての徳川夢声が自ら乗り出していることで、なるほどそれ以上の適任者はあるまい。

もっともハナシのプロであることには憂鬱も付き物であるらしく、開巻すぐに夢声は、専門家である自分がいかに敬われないかというぼやきを披露している。

私が一席やりまして、そのあと主催者側との会食などあるとき、

「うちの工員で松木というやつがいますが、こいつ漫談の名人でしてね、仕事はダメだが、漫談をやらしたら、先生ぐらいやります」

とか、あるいは、

「隣村に勘太郎ちゅう野郎がいるが、この野郎と先生と掛け合い話やらしたら、面白かんべえなァ。そりゃ、先生サンはもうウメえにきまってるが、勘ノ字もどうしてなかなかやるからなァ、ことによるとはア、先生もアホられちゃうかもしれねえぞ、ハッハッハ」

などと情けない目にしばしばあうのであります。

この、ハナシは誰でもできるもの、という常識と、おもしろいハナシをできるプロとしろうとはどう違うのか、という境目の問題は今日でも跡を引いているものであり、テレビのバラエティ番組のトークが視聴者に模倣されることによってプロとアマチュアの境界線が見えづらくなっていたり、SNSの普及によって誰もが同じ土俵で発言することが可能になったりしている現在においては、もし夢声翁が健在ならばいよいよその嘆き節も大きなものとなっていたことだろうと思われる。何しろSNSには、落語家の発言に対して「うまいね、座布団一枚」とレスポンスするような向こう見ずな発言者がごろごろしているのであるから。

夢声がハナシの専門家、研究家としてどのようにこの問題に向き合ったかは本を読んで確かめていただくとしてここには書かない(なるほど、夢声の立場からすればそう言うしかないだろうな、という書き方をしている)。また実用書であるから、「日常話」「演壇話」のそれぞれをどう解説しているかにも触れないことにする。

ここで書いておきたいのは、夢声が自身の生業である漫談をどうとらえていたか、それを他人にどう説明していたか、ということである。「演壇話」の中には必然的に漫談の項目がある。その中で夢声は漫談と落語について、四つの違いを挙げているのである。引用する。

A・落語には最後のオチが必要でありますが、漫談にはほとんど必要でありません。

B・落語には一貫した筋がありますが、漫談にはありません。

C・落語は師匠から伝授されるが、漫談は自分で創作する。

D・落語家には、時代感覚を必ずも条件としないが、漫談にはそれが絶対条件である。

もちろんこれは原則として言っているのであって夢声自身が例外もあるべしと認めている。注意深い方なら気づかれると思うが、本書の中で夢声は「古典落語」という用語をただの一度も使っていない。安藤鶴夫などによって「古典落語」が称揚されるようになるのは戦後少し経ってからのことであって、本書が刊行された1947年の時点では落語は落語なのである。

故・立川談志は漫談に関する舌禍事件を起こしたことがある。右の定義で見たとおり、漫談は個人に帰属する創作物であり、基本的に型のようなものがない。それを「芸ではない」と表現したのだが、正確には「(落語と同種の)芸能ではない」という意味であったはずで、言葉足らずであったことは間違いない。出典が見つからないのでやむをえず記憶に頼って書くが、たしかこの一言で柳家三亀松を怒らせたはずだが、談志の念頭にあったのは大辻司郎や山野一郎のそれであって、粋曲の系譜にある三亀松のことではなかっただろう。この件について夢声が言及したことは私の記憶ではないが、もし談志発言を聞いていたら、一部は賛同したうえで、漫談を芸能に含めるためのさらに高位の視点を提示したのではないだろうか。

ハナシの専門家であるはずの夢声が一般客から敬われずに軽視されることさえある、という事情の背景には、型が無く、継承ができないという問題があるはずだ。実は『話術』は、その点に釘を刺したものと読むこともできる。本書で繰り返し語られていることの一つに、ハナシの優劣を決めるのはマであり、それは誰にも先天的に備わっているものではなくて、技巧を習得しなければならないものだ、という主張がある。話術とはマ(間)を我が物にするための技巧であると言い換えてもいいほどだ。

『話術』という題名ではあるが、本書の中ではハナシの主題の選び方やその内容に踏み込んだ記述がほとんどない。それをいかに話すか、ということに主眼があるのである。だからこそ一般の会話から演芸に至るまで敷衍して扱うことができるのだが、特に演芸の項においては、いかにその技術が磨かれているかについての言及が多く、興味深い。たとえば以下は、近世から近代にかけての講談や落語などの説話芸術がいかに磨かれてきたかということを、寄席の狭さに関係づけて説明したくだりである。

一、あまり大きな声の必要がない。馬鹿デカイ声は反って耳障りとなる。そこで水調子、低い声でピタピタと語り進めるのが味わいよしとされる。

二、いかなる囁きも、隅々までとおるような有様だから、話術はいくらでも繊細に発達できる。

三、客はすぐ目の前にいるから、表情や、眼の配りが微妙になる。同時に、あまり大きな身振りは、ふさわしくない。

四、客が鼻先に座っているから、自然、客席との交流が起り、直接話法的な、親しみのある話術を生ずる。

聴衆・観客と話者のこうした潜在的な交流・相互影響を視野に入れた考え方が本書の真骨頂である。たとえば立川吉笑は、『現在落語論』において「なぜ落語は上半身だけで演じられるか」ということについて斬新な見方を提示したが、それもまた、演じられる場との関連から落語を考えるという『話術』の延長線上にある。本メールマガジンの執筆者では立川談慶が、落語に原則的に備わっている平和な人間関係、対話で問題を解決していくやり方などは実人生に役立つものであるという主旨の実用書を複数執筆しているが、これらも夢声の論と重なるものがある。演芸・芸術をハナシの一類型として分解して考えるという思考法は、さらに大きなものを産みだす可能性が眠っているように私には感じられるのだ。

本書の末尾には「話道の泉」として、さまざまな達人による芸談が紹介されている。どれも味わい深いのでぜひ目を通していただきたいが、一つだけ引用紹介しておきたい。五代目尾上菊五郎に関するものである。

清水一角(『忠臣蔵』に登場する吉良方の武士)が赤穂浪士討ち入りの陣太鼓を察知して跳ね起き「今この太鼓を世の中に、熟練なしたる武士は、松浦候のご隠居と続いて赤穂の」と、ここまで台詞を言った後に自ら驚き、「姉上、夜討でござる、夜討でござる」と叫ぶ。

普通の役者はこの台詞を一句ずつ物々しく切って言うのだが五代目は「清水一角ほどの武士だから「松浦候」というときには赤穂の事が頭に浮かんで」いるはずであり、「赤穂の」まで一息で句切らずに言ってから驚いたのだという。

「松浦候のご隠居と」で句切ってしまうと、とたんにブッと驚くのが当然で、「続いて赤穂の」を言ってる暇がないはずになる。一息に言えば、頭の中の働きと、口の動きが一致して「続いて赤穂の……」でブッと驚いたときに、見物の方で「赤穂の城代家老大石内蔵助」と、あとの文句を考えてくれる。

さすが名優だ。ここまで自分の扮している役柄の心理と、見物席の客の心理とを、突込んで考えるということは大したことだ。

というような芸談が満載なのであります。後は実際に本でお楽しみください。

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