※なぜか2002年10月号の「問題小説」が見当たらなかったので、1号飛ばして11月号の原稿を掲載する。
小糠三合持ったら婿には行くな、という言葉がある。つまり少しでも財産があるなら入り婿になどなるな、という戒めである。基本的にわが国の近世近代は男系社会だったからこういう差別的な表現がまかり通っていた。しかしながら「小糠三合」という表現はいかにもショボい。そういえば「三文お安い」なんて揶揄のしかたもあったっけ。
消費行為はばば抜きに似ている。価値というのは消費行動の中で相対的に生まれるものだから、中にはとんでもなくお安い中身を絢爛たる包み紙でごまかしている商品がある。そういう商品をたまに押し付けられる消費者がいるのだ。いや、ごまかしきれているのならともかく、包み紙の端が破れ、お安い中身が覗けてしまっているものもある。覗けてしまっていることを気付かずに売り付けようとする売り手も、気付かずに買ってしまう買い手も、双方涙が出るほど恥ずかしい。
そういう恥ずかしい人間を戸梶圭太は「激安野郎」と呼ぶ。「一円野郎」とも言う。戸梶ほど、この「激安野郎」を嗅ぎ当てることに長けた作家はいない。その名をご存じない読者もいるだろうが、戸梶のデビューは一九九八年の『闇の楽園』(新潮文庫)。この作品で第三回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞した戸梶は、以降異常なほどのハイペースで犯罪小説を発表し、現在もっとも勢いがある若手ミステリー作家である。
その戸梶の第一短篇集『トカジノフ』と第二短篇集『トカジャンゴ』が先般刊行された。二冊の短篇集を二ヶ月連続で出すという前代未聞の刊行である。しかも驚くなかれ、この二冊の収録作のほとんどが「激安野郎」小説なのである。
『トカジャンゴ』収録の「善意の357マグナム」から引用してみよう。。
一言で“悪い奴”といっても、大まかに二種類いる。それは巨悪と激安野郎である。(中略)激安野郎とは、バブル崩壊とともに進行したモラルハザードによって蛆虫のごとく大量に湧いて出た劣悪凶悪小市民のことである。
この辺に戸梶と戸梶以前の犯罪小説との違いがあるのだろう。戸梶以前では、一般市民と犯罪者の間に確固とした一線が引かれ、その一線を踏み越えたときに始めて犯罪者が発生するという考え方が基本にあった。戸梶は違うのである。法律的に犯罪者として告発されるか否かを抜いて考えれば、この社会にうごめく小市民のことごとくが「激安野郎」犯罪者としてデビューしてしまう可能性の上に生きているのだ。
『トカジャンゴ』収録の「トレンド」は、まさにそういう社会を扱った小説。駅のホームで前に立っている人間を突き落とすというイタズラが流行し、鉄道各社が困り果てる。そこにある老人が現れて画期的な解決法を示すのだが、その解決法は「一線」の存在を信じる人間には決して示せないものだろう。「門前払い」も同じ。AV制作会社に雇われた男が、AVに出演して手っ取り早く金を稼ごうと押しかけてくる勘違い女たちを撃退する話だ。この勘違い女のデフォルメが凄まじいが、永沢則雄の「清潔な」ノンフィクション『AV女優』(文春文庫)と比べても、遥かに説得力と現実感がある。そしてまたこの短篇にも、「一線」を無視した解決法が示されるのである。
戸梶の小説に倫理観がないのかというとそうではない。むしろ真っ当すぎるくらいに戸梶の倫理観は真っ当である。真っ当すぎるから、誰もがおかしいと感じながら、あえて口にしないようなことまで書いてしまうのである。こうした超倫理性は『トカジノフ』収録の「Jの利用法」に最も強く現れている。作品のテイストはまったく異なるが、故星新一のいくつかのショートショートは、こうした超倫理によって書かれたものであった。
また、戸梶はアクション描写が抜群にうまい小説家でもある。おそらく映画の影響と思われるが、アクションシーンでどの登場人物がどこにいるかという空間把握の描写が優れているのである。これが決まらないと、読者の脳裏に鮮やかなイメージが浮かないのだ。『トカジノフ』収録の「ターゲット508」、『トカジャンゴ』収録の「ゴンドラの七人」が特に優れており、ことに後者は、高層ビルの外壁に吊られたゴンドラに(なぜか)ぶら下がった七人の男女のせめぎ合いを書くだけの話なのに、アクションだけできっちりと物語になっているのが凄い。
とにかく戸梶の本は一冊読み出すと癖になるのだが、それには戸梶が意図して行っているパッケージングにも一因があるだろう。『トカジノフ』『トカジャンゴ』は何もここまで、というくらいに装丁(パッケージ)に凝った本だが、それだけでは飽き足らず、戸梶は二冊の本を購入した読者にグッズプレゼントまで用意しているのだ。これまでの著書でも試みられたことだが、今回のグッズはなんと著者自身の監督による自作ビデオ化作品『ニ種族利用法&Jの利用法』である。このサービス精神には頭が下がるばかりだ。当然市販予定のないビデオなので(そういう内容)、観たい人間は本を買って応募するしかないのである。
こういう試みを商業主義として批判する人もあるかもしれない。しかし、戸梶としては批判されたところで痛くも痒くもないはずだ。なぜならばそういった大量消費の氾濫の中で踊らされている人間を批判的に描くことこそが戸梶のテーマであり、その中で作者のみが清廉潔白な顔をして済ましかえっているとしたら、それこそ胡散臭い話だからである。作家として潔い。戸梶本、どんどん売れればいい、と私も思う。
さて、「激安野郎」を書いた小説が今月は文庫化されていたので紹介しておこう。姫野カオルコ『整形美人』である。ここで扱われているのは「女性の美」を軸点にした価値判断の愚かしさである。
整形外科の名医・大曽根は過去の患者の娘であるという繭村甲斐子から全身美容整形手術の依頼を受け、困惑した。大曽根の見たところ、甲斐子は輝くばかりの美女であり、まったく整形手術の必要がない女性だったからである。彼女はしかし自分をブスだという。男性の目にとまるために彼女が必要だと考える「計画」は、彼女のその神々しいばかりの美しさをことごとく消し去ることに他ならなかった。一方、甲斐子と同郷の元同級生・望月阿倍子は、甲斐子がなろうと目指す、まったく特徴のない容貌の女性だった。しかし彼女は美しさに憧れ、逆に甲斐子の写真をもとに美容整形手術を受けてしまう。かくして、二人の女性はまったく逆の変身願望を実現し、新たな生活を送り始めるのだが……。
本書でまず提示されるのは「美」とは相対的なものであるということだ。つまり「美とは誰かのための美でしかない」ということ。これだけではまだ曖昧か。身も蓋もない言い方をしてしまえば、「誰かに顧みられることのない美など何の価値もない」ということである。第一、二の章題である「ロブスターの悲劇」「テリーヌの法則」はこのことを端的に表現している。すなわち立食パーティにおけるロブスターは華やかな存在だが、それゆえに誰からも手をつけられず、周囲の安っぽいテリーヌばかりが減っていく。ロブスター自身から見れば、華やかであるがために最後まで残ってしまうのだとすれば、そんな美に一文の価値もないのだ。かくして甲斐子(=ロブスター)は阿倍子(=テリーヌ)を目指す。
甲斐子と阿倍子の名は旧約聖書のカインとアベルのエピソードをモチーフにつけられたものだろう。農作物という所与の産物(=生来の美)を捧げ物としたカインは神から拒絶され、狩猟という行為による獲得物を捧げたアベルこそが神に受け入れられる。それゆえカインは自分を捨て、アベルとなることを目指すのだ。
この気まぐれな神こそが、男系社会における男の価値基準なのである。これは実に「激安」に描かれているので、男性読者は心して読むこと。われわれの価値判断というものはかくも「お安い」ものらしい。自戒をこめて大笑いしよう。
姫野の近作には恐怖小説集『よるねこ』(集英社)があるが、収録作「獏」は軽薄な男系社会の中で踊らされる女性が主人公である。同作を含めレベルの高い短篇集なので併せ読むことをお薦めしたい。
(初出:「問題小説」2002年11月号)