仕事とあたしのどっちが大事なの、と女性に言い寄られ、窮地に陥った経験を持つ男性は多いだろう。そういった厳しい質問に対して明確な答えを返すのは難しく、できれば先延ばしにしてしまいたいものである。佐藤正午『ジャンプ』は、答えを先延ばしにしたために永遠に回答の機会を失った男の物語である(オリジナル単行本は二〇〇〇年刊)。男性諸氏は我が身を振りかえりつつ読むこと。
主人公の三谷は、慣れない酒を飲んで気分が悪くなり、恋人の南雲みはるの部屋に転がりこむ。彼女は三谷を介抱すると、翌朝食べるリンゴを買いに外出し、そのまま部屋に戻らなかった。翌朝、三谷は重要な出張を控えていたため、二日酔いのまま空港へ向けて飛び出してしまう。恋人の不在は不審だったが、彼女を捜す暇はなかったのである。しかし五日後、再びその部屋を訪れた三谷を出迎える者は無く、南雲みはるは失踪していた。三谷は彼女の痕跡を追い始めるが――。
一言でいえば、恋人か仕事かを選択すべき大切な瞬間に、恋人を選ばなかった男が、もし違った選択をしていたらどうなっていたのか、を追認する小説である。三文恋愛ドラマだと、この分岐点で間違った方向にいってしまった恋人たちが、『母を訪ねて三千里』の悪夢版のような紆余曲折を経て再会し、ハッピーエンドを迎えるという筋立てになる。そういう話が「嫌いな」方はぜひお読みになるとよろしい。運命の無情さを淡々と描き、人間の(男の、と言ってもよいが)滑稽さを小説上に現出させている。
恋愛ドラマといえば、小川勝己『撓田村事件-iの遠近法的倒錯』の冒頭に描かれるのも男女の行き違いである。男女というか、中学三年生だから少年少女か。
阿久津智明は、同じクラスの山田ゆりという少女にほのかな好意を抱いているが、それを口外できずにいる。なぜならば、ゆりが好きなのは智明の幼馴染の親友・朝霧将晴だからだ。男の感情に鈍いのか、ゆりは智明に将晴との仲を相談しにくる。そればかりか、ゆりの友人でこれまた智明の幼馴染である篠宮光子との仲をとりもとうとさえするのだ。そのたびに智明の胃はきりきりと痛くなる。
この四人の平和な関係が変化したのは、東京から桑島佳史という少年が転校してきてからだ。それまでクラスのボス的存在だった将晴は、佳史にその地位を脅かされるようになる。実は、彼ら二人は遠縁の関係にあり、桑島家は朝霧家の間借り人状態であった。そのためか将晴は病的に佳史を憎み、ついにある日実際に暴力を振るってしまう。その暴力の余波は、思わぬ形で将晴と親しかった智明の上にも襲いかかってくる。しかも事態はそれで収まらなかった。なんと級友の一人が、何者かに惨殺されてしまったのだ。
さて。こう書いてくると、この小説はありふれた学園ミステリーの一種か、と早合点する人もいることだろう。違うのである。彼らをとりまく環境は、ありふれたものどころではない。
智明たちの通う中学校は岡山県淵之部軍香住村という山間部の共同体にあることになっている。香住村は町村合併によってできた村で、村村のうちの特に辺鄙な一つが、もともと撓田村と呼ばれていた集落である。智明たちは、その撓田村に住んでいる。過疎化の村だ。将晴の朝霧家は、かつて村を牛耳っていた名家である。重要な祭祀すらも掌握し、明治になって途絶えた村の神社を再興したこともあった。村には土着信仰が強く、かつて犬使いの老婆を流れ者が殺したために祟りが生じたという謂われの、犬塚という場所もある。
岡山県の寒村、共同体を牛耳る素封家、村に伝わる祟りの伝説とくれば、故・横溝正史の世界である。実はこの祟りは現代になって発効したこともあった。戦時中、村に匿われていたコミュニストが惨殺されたとき、彼らが飼っていた犬が火の玉となって走り回り、村は大火事となったという。昭和四十二年には、うら若い女性が境内で惨殺されたため、聖域が汚され、神社が移転するという事件も起きている。過去の祟りの伝説が現在に災いをなす物語といえば、『八つ墓村』(角川文庫)である。
先の将晴と佳史の不仲も、朝霧家と桑島家の反目として読みかえれば、たちどころに横溝正史的主題に姿を変える。本家と分家の軋轢といえば、横溝がしばしば扱った人物関係だろう。『八つ墓村』の事件の発端が、八つ墓村を支配する旧家の遠縁にあたる青年が村に帰還したことであったことを記憶している読者も多いだろう。中学生同士の喧嘩だと思っていたらおそろしいことになるものだ。
二〇〇二年は横溝正史生誕百周年にあたるが、こうしてみると本書ほどそれにふさわしい作品はない。しかし厳密にいえば、本書は二〇〇〇年に横溝正史賞を受賞した『葬列』(角川書店)以前の作品なのである。『葬列』応募の前年に新潮ミステリー倶楽部賞に応募し、最終候補に残った作品が原型となのだ。犯罪小説作家としてデビューした小川だが、その根底には横溝に通じる謎解きミステリー作家の資質を有していたのである。
もっとも、昨年の話題作『眩暈を愛して夢を見よ』(新潮社)や本年の『まどろむベイビーキッス』(角川書店)を読んだ者の間では、すでに小川が犯罪小説作家以外の一面を持つことはよく知られていた。それらが偶然の産物ではなく、作家の中心線に謎への志向があることを証明したのが本書であるといえよう。
そう言い切れるのはなぜか。作品のオリジナリティのゆえである。本書は横溝正史が作中に好んで使ったモチーフを流用しながら、決してそれのみに終らず別物の作品になっているのだ。
名作『獄門島』については、内容をご存じない読者の方が少ないだろう。ある「見立て」によって島の名家の家族が次々に殺されていくという筋立ては、映画化などの影響もあってすっかり有名なものになった。本書にもそのパロディを思わせる部分は散見される(関係者に、殺人の状況を唄った童謡はないか訊いてまわる刑事がいて笑わせる)が、そういった外構だけが重要なのではない。
未読の方に差し障りない書き方をするならば、本書は『獄門島』の中でももっとも重要なエッセンスである、同時代でなければ起こり得ない事件が描く、という特徴を持つ。本書の登場人物は比較的多い。彼らが撓田村という狭い地域に集まったことによって事件発生の引き金は引かれるが、彼らが集まらざるを得なかった事情こそが、この時代を象徴するものなのだ。また事件成立のためには、横溝の頃には存在しなかった、現代の風俗の要素が必要である。
参考文献には、『獄門島』と並んで宮部みゆき『東京下町殺人暮色』(光文社文庫)が挙げられているが(死体処理の方法が似ていることは前半部で触れられている)、同作が現代人の脆弱な精神性を背景にして描かれていたように、本書もまた現代人の心に巣食う「絶対的な孤独」を現出させる小説なのである。フーガのように真相解明のどんでん返しが続く終盤の展開は、『まどろむベイビーキッス』の絶望的な結末を思い起こさせる。
本書は撓田村という舞台の上に実社会の縮図を描き出し、現代人の心性を浮き彫りにした、優れた諷刺小説でもある。中心にあるのは少年少女の恋愛模様だが、そこにミステリーの要素が絡まることにより、それらの心性がはっきりと読者の脳裏に定着することになった。事件が直線的に進行するのではなく、連鎖反応を引き起こして複線的・立体的に発展していくという点は、先行する横溝作品にはなかった要素であり、二十一世紀らしい進化を遂げた作品と呼ぶことができる。
『ジャンプ』は、気まぐれな選択によって左右された個人の運命を描く小説だった。この『撓田村事件』では、個人の運命など無視する残酷な選択肢が描かれている。もし何々ならばという仮定に、登場人物の意志が入り込む余地がまったくなく、すべては運命的に決定づけられたドラマとして描かれているのである。優れたミステリーは、時折こういった形で、人間がいかに無力で滑稽な存在であるかを指摘することがある。こういう作品を読むたびに、ミステリーの本質は悲劇ではなく喜劇であると痛感するのだ。
(初出:「問題小説」2002年12月号)