椎名誠が最初に書いた長篇エッセイ『さらば国分寺書店のオババ』にその名を留める店に、私は足を踏み入れたことがあるだろうか。本の扱いにうるさく、函から出したときにハトロン紙を破こうものなら客を泣かさんばかりに文句を言うであろうオババの姿は、今にして思えばどこにでもいる古書店主のものだが、若き日の椎名誠はそれに我慢ができなかったらしく怨嗟の念を書き綴る。しかし、ある日突然国分寺書店は街から姿を消してしまい、というのが同書の概要だ。街から消えた古本屋のことを書いたもので、最初に私が読んだのはこの本だったと思う。
記憶にある国分寺の古本屋はおそらく今は亡き聖晏文庫である。ここに突然レックス・スタウトの原書が大量に出たことがあり、興奮しながら何冊か買った。本当なら全部欲しいところだが、高校生で手が出なかったのだ。そのとき苦労しながら原文で読んだのが、後に翻訳でも読んだ『シーザーの埋葬』だったように記憶している。アガサ・クリスティー『オリエント急行の殺人』に続く、二冊目の原書読書だった。
というようなことを懐かしく思い出すこともなく、夕方の帰宅客で溢れかえる国分寺駅に到着した。記憶にある駅舎とまったく違う。ここには作家の冲方丁氏と一緒に来たことがある。雑誌「ダ・ヴィンチ」の企画で、プロダクションIGで押井守氏と対談してもらったのだ。対談といってもほとんど押井氏の独演会で「なぜ巨大ロボットアニメが好きではないか」というような話題に冲方氏がひたすら合槌を打つ展開だった。終了したあと国分寺駅に向かう途中で冲方氏が、「いやあ、緊張したあ」と上気した顔でおっしゃったのを覚えている。
また脱線した。そのときにあったかどうかも記憶に定かではない駅ビルは、ミーツ国分寺という名称だそうである。古本市はその3階で開かれている。昨年が第1回だったそうで、4月20日から6月2日まで、けっこう長い期間の開催だ。足を運んでみるとフロアの奥に会場があった。元はHMVの店舗があったところらしいが、そこに関東近郊からいくつかの業者が出店しているのであった。
こういう感じで商業施設で開催される古本市に昔はよく行ったものである。私が住んでいたころの多摩市では、小田急・京王の両永山駅に隣接するグリナード永山という施設の1階で行われていた。そこで石ノ森章太郎(当時は石森)が『真・幻魔大戦』を連載中の「SFマガジン」を手に取ったのが、同誌を読んだ初めではないだろうか。
三多摩出身なもので、どうも西に来ると昔話が多くなる。結論からいえばこの古本市では何も買わなかった。商品は入れ替えられているようなので、6月2日までに機会があれば再訪したいが、まず無理だろう。お近くの方は出かけてみたら何か発見があると思う。
駅を出て、いくつか店を周っておくことにする。最初に足を運んだのは南口から近い古書まどそら堂である。ビルの半地下階にあり、並びには絵本専門店や雰囲気のある居酒屋などが並び、中央線文化圏の縮図を作り出している。店頭には均一棚。店内は奥行きが長い造りで左右の壁際にある書棚が主だが、そこから横に張り出した背の低い棚にもそれぞれコーナーが設けられている。手前には絵本や児童書、少し入ると伝奇小説やミステリー、幻想文学やSFが左右に散見され、古いものも多い。一点、あれば家に置いておくのも悪くない本を見つけたのだが、値段が折り合わずに断念。けっこういい値付けである。奥には古いコミックの単行本がある。少女漫画を意識して収集しているように見えた。
外で声がして、四歳ぐらいの男の子を連れた女性が入ってくる。
「ごめんなさいね。この子が、また絵本の店に行く、と言ってきかなくて」
以前に来たことがあるのだろう。男の子は絵本を熱心に見つめている。店主は微笑ましげにそれを眺めていた。将来の読書好きがまた一人増えた。坊や、奥に小栗虫太郎とかあるよ。
まどそら堂を出て坂道に戻ると、すぐ左にほんやら洞がある。歌手の中山ラビが店主を勤める、国分寺の核といってもいいバーだ。すでに店内は賑わっていて、ふらふらと私も入りたくなるが、今日は家で夕食をとるつもりなので我慢して通り過ぎる。この坂を下り切ったところにかつて別の古本屋があったような気がするのだが、記憶違いかもしれない。左に曲がって線路を越え、北口側に出る。ここから駅のほうへ戻るつもりで歩き、表の道から一本入ったところに七七舎の二号店がある。
前に着くと、男性が店じまいを始めていた。こちらを見て、すみません、今日は六時までなんです、と言う。そうだったか。では、仕方ない、出直すことにしよう。立ち去るまでずっと七七舎の二号店だと思っていたのだが、ツイッターで早春書店が居抜きで入って経営が代わっています、と教えてくれる方があった。知らなかった、そうなのか。店主のツイッターを見ると、古本だけではなくZINEなども販売している由。知らない古本屋が一つ増えてしまった。国分寺にまた行かなければ。
その道をいくと、駅から北方に延びている通りにぶつかる。右に曲がってすぐに、七七舎があった。店頭の均一棚が異常に充実していて、これを100円で買ったら申し訳ない、というものがごろごろしている。申し訳ない、と言いつつ何冊かハヤカワ・ミステリのダブりを手に取った。
店内はH型をしている。扉を開けて中に入るとHの左の横棒で、中央棚を挟んで2本の通路がある。その右側中程にある古典芸能の棚で欲しかった本の揃いを見つけたが、少々値付けが厳しくてこの日は諦めた。中央棚の裏で、やはりハヤカワ・ミステリのユベール・モンティエ『悪魔の鋪道』を拾う。この本、美術出版社の『バカミスの世界』という本に執筆協力した際、ブツ撮りのために本を貸したら失くされてしまったのである。他にもいくつか貴重な本のカバーを返してもらえなかった。編集者に何度か連絡したがはかばかしい返事がもらえず、ついには電話にも出なくなってしまった。原稿料と失くされたものの差し引きで考えると、引き受けるべきではなかった仕事になったのが残念だ。
Hの右側の縦棒は重めの人文科学書などが中心で、美術・芸術系もある。縦棒の上は二股に別れており、右側がお店のストックヤード、左側に歴史や民俗学関係の本の棚がある。Hの横棒が帳場で、その正面に岡崎武志氏の書店内書店の棚があった。たしか岡崎氏や古本ツアーの小山氏がここでトークイベントをやられたのではなかったっけ。岡崎棚を興味深く見た後にお勘定をしてもらう。
店を出るとすでに日が落ち切っていた。ここから駅に戻る道は高校時代に何度も歩いたと思うのだが、まったく見覚えのない街路に変わっていた。あのころは帰りに焼鳥屋でちょっと一杯、というわけにもいかなかったから目が違っているのだろう。風景をしっかり記憶に上書きして、帰途に就いた。