8月某日。
反町の神奈川古書会館を出て、さあ、もう少し歩くか、とやる気が出てきた。三時間ほど前に湯河原でリゾートマンションから駅まで歩いたときはわずか10分であごが出たのだが、日も落ちてきたし、前途に古本屋があると思うと力も湧いてくる。ここは横浜市神奈川区で、東横線がすぐ東側を走っている。疲れてしまってどうにもならなくなったら、駅に方向転換すればいいのだ。
とにかく北上して白楽駅、というよりも古本屋が密集している六角橋商店街近辺を目指すことにした。ここらへんを歩くのはひさしぶりである。
十分ほど行くと道が県道十二号線にぶつかる。横浜上麻生道路である。そこから先に六角橋商店街の交差点があるのだが、道の手前左側に高石書店がある。だが、残念ながらお休み。ここしばらく開いているときに来れたことがないので、平日に出直したほうがいいのかもしれない。
気を取り直して北上し、先述の交差点手前でまず左、西側に曲がる。ここから二分ほどで、相原書店である。
店頭に三台の均一棚が、やや弓なりになっている道路線に沿って斜めに置かれている。向田邦子の文庫などがあり、そこを見ただけでもきめ細かく気を遣っている古本屋であることがわかる。店内に入ると、すぐ右に民俗や歴史関係の本が詰まった細長い棚がある。ここがいきなり私の専門分野だ。そこからの壁際は奥に向かってずっと芸術系の本が並んだ棚が続いているのだが、下のほうにはLPレコードもある。見ると落語や俗謡のものもあり、ついつい調べてみたくなる。どこにでもあるようなタイトルではなく、趣味のいい盤ばかりだ。もしかすると演芸系も期待できる店なのかもしれない。その壁の棚に沿ってEPなどの均一台があり、音楽系の本も並べられている。それと向かい合う形であるのが文学棚、裏の奥側に古典芸能の一画があり、ここで先代古今亭今輔の新作落語集『今輔・おばあさん衆』と先々代の春風亭柳橋『高座五十年』を発見、これだけでももう今日は元を取ったようなものである。
店内には「神大(神奈川大学)の教科書買います」の掲示があり、古典芸能の向かいは理工学書がずらりと並んだ背の高い棚である。その裏は壁棚も含めて新書と文庫のエリア。創元推理文庫などもふんだんにある。最近カトリーヌ・アルレーを買い直しているので、持っていないと思われるものをすべて手にした。頭の中で計算してみたが、安い。いいお店である。
店内の奥四分の一ぐらいは帳場とバックヤードになっている。店主が何やらパソコンで作業をしているので、頃合いを見計らって勘定をしてもらった。
気になったことを話してみる。
「あの、演芸のレコードがけっこうあるのを見たんですけど、もしかして浪曲は扱ってないですか」
「浪曲ですか。それほどは出ないですね。どのへんをお探しなんですか。やはり(廣澤)寅造とか」
「できれば虎造以前のものがあれば嬉しいんですが、そのへんになるとSPになっちゃいましょうか」
「ううん、出ないこともないんですけど、SPだとやはりクラシックが多いですね」
「そうでしょうね。プレスの枚数が全然違ったでしょうから」
また来ます、と言い残して店を出る。本はあまり買わないつもりだったのに、すでに大荷物である。
相原書店から一本北の通りにもう一軒古本屋がある。通り同士をちょうどよくつなぐ道がないので、戻ってさっきの六角橋商店街の交差点から行ったほうが利口だ。通りに入ってすぐ、道の左側に看板が見えてくる。「古書籍雑誌売買 小山商店」と年季の入ったいい面構えである。
店は中央の棚で仕切られたオーソドックスな形で、右側のエリアは法律書など、私の専門外のものが多かった。やはり神奈川大学の学生が売ったのだろうか。右側に入ると、なぜか薄暗い。天井の蛍光灯が節電のためか半分ぐらいしか点いていないのだ。それでも本の背は見えるので棚の前を逍遥していると、帳場の店主が灯りを追加で点けてくださった。
壁際は文学書や歴史書が多く、しかも評論など硬めのものが多い。中央棚のほうには山岳書のコーナーがあり、これはしっかりと見る。『ザイルの三人』があったが、カバー無しなので置いていくことにする。何度か周回して収獲ゼロかな、と思ったときに、ふとそれまで気づかなかった場所にアンソロジーの『О・ヘンリー賞作品集』を発見した。なんだ、今まで隠れていたな。愛い奴愛い奴と取り上げて帳場へ。本はうっすらと埃をかぶっていたが、ちゃんと店主が拭いてくださる。またもいい買い物である。
ここから六角橋商店街に入る。いい加減本が増えて荷物も重くなった。白楽駅に向かって行くと、道の右側に古書鐡塔書院がある。言わずと知れた東横線沿線の名店で、サブカルチャーから主流文学、コミックや美術書に至るまでありとあらゆるジャンルを網羅した理想の古本屋である。ここの楽しいところは文庫や単行本という版型で機械的に棚を区切っているのではなく、幻想文学・ミステリーというジャンルならば作家別の五十音で本が集められている点である。その中でも特に珍し目の本は棚の前に柵がしてあって、店員に断りを入れないと手に取れないようになっている。
ミステリー系の本ではたしかにいいものがあったのだが、ダブりなのでこの日は特に発見はなかった。民俗学系でこれは、という本はあった。ただし値段が予算とは折り合わず、申し訳ないのだが目の保養だけさせてもらい、店を後にした。もういい加減疲れたというのもあるのだけど、ここまで大汗をかいて歩いてきたもので、自分が少々迷惑な客になっていないか気になったのである。
もう一軒、白楽の駅の北側には古本屋がある。しかし今日はもう十分な収獲である。帰ろう。他日を期して東横線の乗客になる。
帰宅してから鞄を開けると、湯河原で買った干物の保冷剤はまだ溶け切っていなかった。わずか二時間の散策で満足のいく釣果である。白楽、またお邪魔しなければならないのだし、漁場をあまり荒らさずに楽しむことができてよかった。