杉江松恋不善閑居 他人の言葉で人生が変わったこと

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小説を読んでいると、人の気持ちを描いていて巧いなあ、と思う瞬間がある。普通だったら何気なく通り過ぎてしまうような感情のちょっとした起伏に着目して、そこが人生の分かれ道だった、ということを指摘する。そういうくだりに行き当たったときに、小説を読む悦びを感じるのである。

自分の人生を振り返ってみても、なかなかそんな劇的な瞬間というのはないものである。平凡な時の流れを創作として脚色しているからこそ小説なのだが、実際の人生ではもう少し身も蓋もない場面が転機になるような気がする。たとえば、自分の恋人が他の人と寝ているところを見ちゃうとか。いや、そういう経験はないけど。

そんな中で、ああ、あれは転機だった、と思い出したことがある。

まだ差し障りのある話なので具体的な名前や時期などはぼかして書く。私が何年か頑張ってやっていた仕事があった。心血を注ぐつもりで頑張ったのだけどなかなか成果は上がらず、このままやってもじり貧になるだけではないか、他の仕事にも悪い影響が出るかもしれない、と思い、未練はあったものの諦めることにしたのだ。

多くの関係者にお世話になった仕事でもあり、けじめをつけるつもりで総括の文章を書いた。なぜ失敗したのか。自分たちの何が駄目だったのか。もしくは、自分たち以外にどんな要因があったのか。成功とは言い難い過去を振り返ることには痛みが伴う。それでもまとめておかなければ、先に進むことはできない。失敗は繰り返すものだからだ。

長い文章をまとめ終わり、その仕事を共同で進めていた人にも見てもらおうとした。パートナーだからである。その仕事は終わったが、違うことではまた一緒に何かやれるかもしれない。

私から文章を受け取り、彼はこう言ったのである。

「悪いですけど、読まないことにします。過去にこだわっていては先には進めないと思っていますから」

耳を疑うとはこのことで、過去に学ばなければ未来はありえない、というのが私の考えだから、これはまったく反対である。

しかも私と彼が一緒にやった事業についてのことなのだから、私がそれをどう分析したかについては、この先何かを一緒にやるつもりがあるなら目を通したほうがいいのではないか。なぜかといえばパートナーだからである。逆に言えば、それを見たくないというのは、私と一緒に何かをやる意志がないということである。私にそう思われても構わないということである。

これほどの拒絶を受けるとは思っていなかった。

びっくりして、私はすごすごと彼の前から姿を消した。訣別宣言だと思ったのである。以降、彼との関係は断っている。

もしかすると彼はそこまでのつもりがなく、ただ読みたくないという理由だけでそう言ったのかもしれない。だとすれば私のことを怪訝に思っているだろう。理解できずにいるに違いない。姿を消して、とんだ不義理者だと考えているかもしれない。

言葉一つに人生を変えられたことが私にもあった。上がその顚末である。後になって考えてみると、あの一言ですっぱりとずるずる引きずっていたものを断ってもらえたのだから、よかったのである。彼は親切なことをしてくれた。おかげで私は先に進むことができた。感謝さえしている。

池袋・三福のホッピーには裏切られることはない。

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