この週末にやってくる台風は類例のないほどの強烈なやつだそうなので、どうぞみなさまご用心ください。拙宅もそれに備えてベランダの片付けやら戸締りやらせねば。風速50メートル、急いでやらなきゃこりゃことだ。
そんな折に済んでしまった話を蒸し返して恐縮なのだけど、数日前に新潮社の宣伝部が、百田尚樹氏をヨイショする感想文を書いて図書カードを貰おう、というキャンペーンを大々的に打ち出す、ということがあった。大々的に打ち出したはいいが、百田氏に金粉塗りをさせた趣味の悪い写真を使ったこともあってか、SNSでは批判が相次ぎ、開始後1日も保たずして新潮社は謝罪をしてキャンペーン中止を告知したのであった。百田氏はその言動・作風とも私の好むところではないが、金粉塗りまでしたのにお気の毒なことである。暗黒舞踊か、あれは。
この一件、考えるまでもなく新潮社は法に触れるようなことは何もしていない。以前に幻冬舎が津原泰水氏の文庫出版契約を反故にしたときは、法こそ犯していないものの重要な信義を無にするという愚行だったわけで、批判されて然るべきだった。しかし、自社の商品を売るために、その作家が協力し、宣伝作戦を仕掛けるという行為自体にはなんの問題もないはずである。やり方が、大変失礼ながら下品であったということ以外は。
「百田尚樹先生をヨイショしよう」というのは、少年漫画誌ではおなじみの「〇〇先生に励ましのお便りを出そう」というファンレターに近い。違いは、この場合のファンレターは初めから公開を前提にしていることであり、純粋な作家への好意の他に賞金目当てという打算が含まれる点である。また、「〇〇の感想」を初めから公開を前提として集めるような販売促進も以前から行われてきている。発売前にプルーフやゲラを配って、その感想を帯に使うような施策はこれと同質だろう。違うのは報酬1万円という餌をあからさまに示した点である。いや、帯感想文の報酬がいくら払われているか、私は知らないのだが。事前に読めるという特典だけで、払われていないのかも。
1人1万円で合計額20万円という賞金額はたいして大きなものではない。昨今ではツイッターで、フォローしてRTしてくれたらゲーム機を進呈、とか、100万円差し上げます、みたいな本当か嘘かわからない美味しい話を頻繁に見かけるようになっており、それに比べれば金額はセコい。セコいけれども一般的には1万円というのは魅力的な額なのであり、それを目当てに感想文を書いてもいい、という人が出るのは当然のことである。そのへんの心理を衝いて、ほどほどの量の感想文が集まるようなキャンペーンになっていた。けっこう地に足のついた企画であり、宣伝部の人はいけるいける、と思っていたのではないか。
販売促進企画としてはごく一般的であり、似たような先例もあるのだから、と特に用心せずに新潮社の宣伝部は実施を決めたと思うはずなのだ。ただ、これはくり返しになってたいへん申し訳ないが、絵面がたいへんに下品だったのと、1万円でいい感想を買って宣伝に使う、という目論見があまりにもあからさまに前面に出てしまったのが反感を買った理由だったのだと思う。文芸はそういうあからさまなことをしないジャンルだったはずなのに、という良識を信じる人、文芸の孤高を守りたい人が主たる批判者だったと思うが、宣伝部にはそういう声を自分たちの正論でねじ伏せる機会もあった。他の商品では普通にやっています、帯の感想文もそうでしょう、これがどう違うんですか、と。でもそうしないで、即座に何を間違えたのかもわからないような謝罪文を出し、企画自体を撤回してしまった。これは大きな誤りだったと思う。何も考えずにやりました、と白状したような形になったからだ。何も考えない会社は何も学ばないので、次も何かやるかもしれない。そういう風に消費者は不信の念を強めていくだろう。
私も感情的には文芸という聖域を守りたいという人間だ。しかし、冷静に少し身を引いて考えると、文芸と他の商品との違いがどこにあるのか、自分の言葉で説明できないといけないということに気づかされる。それをせずに、文芸でそういうことをやるのは失礼だ、冒涜だ、と言い続けるだけでは駄々っ子の論法だからである。
まったくの偶然なのだが、かのキャンペーンの少し前、あることがきっかけで本の推薦文について考えるツイートを私は投下していた。本の推薦文というのはだいたい40字から120字、ごく少ない語数でお客さんに買ってくださいと訴えかける必要があるものだ。それについて、こんな風に書いた。以下ツイートの順番通りに引用する。上記の問題と関係ないようなツイートも混じっているように見えると思うが、ご容赦願いたい。
私は短い言葉で物事を言い表す怖さと、何より洗脳のように第三者の感情を誘導するのが嫌で、推薦文などで「感動」「号泣」「爆笑」などの言葉を使うのを一切お断りしています。「推薦」は、推薦しているわけだからいい。「絶賛」は、本当に褒めたいと思っているならいい。しかし「号泣」はしないから。
わかりやすいキャッチコピーをつけないと商品が読者に届かない、という作り手の思いは重々承知した上で、そういうわかりやすさだけを進めた結果がどうなるかお考えか、とあえて問いかけたい。以前から言っているように、文脈ではなく単語で考える癖をつけてしまうのは怖いことなんだ。
自分の文章でも重要な点を単語で表現してしまっているところを見つけたら、構成の段階まで遡って、他の文を削る。そうしてできた文字数を使って、単語で説明していた箇所を「○○が××だったから▲▲なのだ」というような文章に置き換えるようにしている。機械的に言葉を使わないための戒めだ。
『書評稼業四十年』で北上次郎さんが書いておられたが、当時は「おもしろい」を書評の表現に使うのがタブー視されていたので、あえて使うことの効果というものがあった。単語にもそういう性格があって、たとえば「絶望」なんかも文章で多用することの意味がある時代というものはあった。
しかし「おもしろい」にしろ「絶望」にしろ市場に言葉が出回っていけば相対的に価値は下がっていく。そうなったときに自分の文章が陳腐に見えてしまうことを、書き手は承知したほうがいいのだと思う。また、単語は別の人間に意味を載せられて解釈される危険もある。それも私には恐ろしい。
『書評稼業四十年』で北上さんは書評家を分類し、ご自分を煽り書評、私を評論家タイプに入れておられた。それは私から見ると、フレーズの使い方の問題のように感じられる。どんな強いフレーズであっても、私は単発では意味を持たせられない。常に文章における配置を考えないと効果がないと思うからだ。
北上さんではない先輩書評家が私に「いいフレーズを考えたら書評家はずっと食える」という意味のことを言ったことがあった。申し訳ないのだが私はそれを否定的に聞いていた。フレーズは風化する。そして、自分のフレーズに他人の作品を押し込めるのは暴力だという理解が、その書評家にはなかった。
このことは結構以前から考えていて、仲のいい編集者にもあまりにわかりやすいキャッチコピーを作り手がお客に押しつけることには弊害があるのではないか、と話していた。それはそうかもしれないが、わかりやすくしないと多くの読者には届かないんですよ、というのがたいがいの編集氏の反応である。それはそうだと思う、しかしね、で話は終わるわけである。
改めて思うのだが、わかりやすくすることによって何が起きるか、ということについて、私も含めて文芸書の作り手は考えたほうがいいのだ。わかりやすくすればたしかに届くかもしれない。しかしわかりやすいものだけが届くことにもなるのではないだろうか。そうしてわかりやすさだけを求めていくと、1万円で感想を買うキャンペーンと同じところに行きつくように私には感じられる。先に書いた他の商品と本(ここは文芸書以外もあえて含める)の違いは何かということで言えば、買ってくれた人に考える機会を提供する、という一点に尽きる。その点を放棄してわかりやすさだけを追究していけば、そりゃ読書という娯楽は他のもっと刺激の強いものに負けていくだろうさ、と思うのである。その後押しをよりによって本の作り手がしちゃ駄目だろう。