某月某日
(承前)
昨日も書いた平成の商人宿で目覚めた。豊橋の朝である。青春18きっぷ小旅行の五日目で、夜までには東京に帰らなければならない。さて、どこに寄り道しながら帰るかだ。
チェックアウトは十時なのだが、夜明け前に目が覚めたら荷物を持たずに外に出て、東海道を先の御油くらいまで歩いてこようか、という案もあった。だが、この平成の商人宿は門限があって、朝もある時間までは扉の鍵を開けないらしい。置きだしていくと、宿の主に迷惑がかかるみたいなので、この案は放棄した。西に向かう案としては、蒲郡まで遠征して未訪の花木堂書店に行ってみる手もある。だが、帰り時間を計算すると少々危ない気もしてきた。この日は事情あって、夕方6時くらいには都内に入っていたかったのである。とすればあとは、東に帰る道すがらでどこかに寄るしかない。
とりあえず静岡であべの古書店に寄って、狐ヶ崎のはてなやに行くか。それともあべの古書店に行ってから伊豆半島の壺中天の本と珈琲に初挑戦するか。はたまた、といろいろ調べているうちに、壺中天はどうやら定休日らしいということがわかった。はてなやにも数ヶ月前に行ったばかりで、もう少し漁場を育てたほうが訪ね甲斐がありそうな気がする。よし、であれば静岡市内で何軒か時間をとって見て回ることにするか。肚づもりはそれで決まった。JRの駅へ向かい、東へ行く各駅停車に乗る。
短い間になんべんも行っているので、静岡駅からあべの古書店までの道筋は足がもう覚えてしまっている。だが、時間がもったいないので、今回はバスに乗ることにした。静岡浅間山神社の方へ行くバスならどの路線に乗ってもいい。停留所四つほどで下りて道路を渡ると、もうそこにブックスランド馬場町店が見えている。来るたびに店頭の均一棚の中身がごっそり入れ替わっている、実力抜群の店だ。ここで未読だった森田誠吾『銀座八邦亭』を拾う。還暦の年に『魚河岸ものがたり』で直木賞を受賞した遅咲きの作家だが、これが受賞第一作になる短篇集である。巻末に直木賞作家になるまでのことを書いた随筆が載っているので、興味本位で買うことにした。
そこから神社の参道になっている通りまで行って左折するとあべの古書店である。十一時開店、のはずなのだがそれを数分過ぎてもまだ店内に電気が点いていない。古書古本と書かれた暖簾も出ていないし、均一棚が閉店中と同じ場所にある。これはまだ中に入るとまずかろうと思いしばらくその均一棚を見ながら時間を潰していると、やがてご主人が現れて開店準備を始められた。手伝うわけにもいかず離れたところでぼうっとしていると、やがて、お待たせしてすみません、と声を掛けられた。いえいえ、古本屋の営業時間は伸び縮みするのが当たり前ですから。
ここも棚の入れ替わりがあっておもしろい。以前にも書いた通り、店の右側のほうに企画棚のような箇所がある。そこに泡坂妻夫の奇術書『魔術館の一夜』があったので、間違いなくダブりなのだが買っておくことにする。安かったんだもの。あべの古書店は一部の例外を除き文庫がすべて百円均一なのだが、そこで山口瞳の男性自身シリーズを何冊か。店の左側奥のバイパスのようになっているところに郷土資料本がある。そこに『おもしろ東海道』という本があったので、狂喜しつつ手に取る。これは学研「四年の学習」の付録であったらしい。挿絵画家も私の世代には懐かしいし、何より東海道本としては貴重である。三桁の値段だったので、一も二もなく購入を決定した。
二軒でもうおなかいっぱいだが、まだちょっとだけ時間がある。ここからどうするか。東に向かって水曜文庫を経由して駅に向かうか、それとも南下して太田書店七間町店に行くか。どちらかしか選べないのである。思案の結果、後者を選択する。水曜文庫のほうが時間がかかりそうなので、他日を期そう。
あべの古書店の位置から南東にまっすぐ下りていったところが両替町といって十返舎一九の生地があるところだ。そこに郷土史関係にめっぽう強い安川書店がある。手強い本が多くてなかなか気軽に帰るものが見つからず、これまでは坊主になることが多かった。だが、この日は掘り出し物が。伴俊男『手塚治虫物語』が揃いで、しかも安い。旅先ゆえ大判の本は荷物になって大変だ。しかしこれは買いであろう。これまで眺めるだけで一切売り上げに貢献できていなかった安川書店の主に心の中で、今までごめんね、と詫びながら本を買う。
さて、最後は太田書店七間町店だ。コンパクトながらも多くのジャンルに目配りし、綺麗にまとまった気持ちのいい古本屋である。アーケード街の一等地に店を構えて通りに文化の芳香を放っているところも偉い。棚には特に発見はなかったのだが、ここでも持っていなかった山口瞳を一冊拾い、青春18きっぷ小旅行のしめくくりとする。次回は三月、それまでに東海道歩きで一回くらいは来られるであろうか。
帰りの各駅停車は混んでいて座れず、ずっと仕事の読書であった。しかし、熱海駅で乗り換えた際、つい気が緩んで買ったばかりの『銀座八邦亭』を読み始めてしまう。これがばかにおもしろい。銀座育ちの作者を投影したような若者を狂言回しにして、戦前から戦後にかけて運命が変わってしまった人々を描いていくという連作短篇集で、特に「人形町晩景」とが素晴らしい。落語家とお旦のつきあいを描いた作品で、落語小説としてもかなり上質の部類に入る。その落語家は正統派だが今一つ人気が出ず、登場人物をみなうっかり者にしてけれん味を出すという手を使って好評を博す。お旦となる人物は、その演出に気づいており、いいのだけど中に一人は真から真面目な奴を出したほうがいいのではないか、と落語家に忠告する。それで落語家はお旦を信頼できる人だと心得るのだ。このへんのやりとりが筋が通った感じでいいし、何よりも舞台になるのがあの人形町末廣なのである。いつか落語小説アンソロジーを編むことがあったら、これは絶対に入れなければならぬ、と心に決めた。
そうこうしているうちに都内に入る。五日目おしまい。