日曜日なのだがお昼は外で食べましょうということになった。
別にお出かけとかそういうのではない。美容院とお買物の用事で妻が不在になり、残された子供と二人で飯を作るのもめんどくさいので外に行こうか、という相談がまとまったのである。
うちの子は食べることについては非常に張り合いがなく、何を食べるかと聞くと必ず、
「ラーメン!」
と言う。他人に聞かれたら、あの家ではラーメンしか子供に食べさせてないのか、と思われそうである。やめてもらいたい。
しかしラーメン屋に行くことにした。
そういうわけでまずは二人で書店に入る。
ラーメン屋に行くことにした、と言いながら舌の根も乾かぬうちに書店に入っているので、よく事情を知らない人は怪訝に感じるかもしれない。しかしそのとき、たまたま「ながら食べ」用の本を切らしていたのである。読みさしのものは、ジョン・ル・カレの分厚いスリラーであった。これは「ながら食べ」にはもっとも不向きな本と言える。
「ながら食べ」には、胃にもたれない内容の本が最適である。そして、片手で支えられるくらいの重さが良い。また、できれば途中から読み始めて、途中で読み終えられる本が望ましい。翌日、その続きを読み「ながら」また食事をするわけだ。
その三原則を満たす本というのは思ったより少ないものである。これはもたれないだろう、と思って手にとったエッセイが、途中から床屋巷談のような内容に変わってしまって投げ出すことはよくある。「俺に言わせれば」式の本は「ながら食べ」に向かないのである。書店ではコリン・フレッチャー『遊歩大全』(山と渓谷社)という本が気になった。一九七〇年代に刊行された、バックパッカーのバイブルと言われた本の復刻版だという。細かい章に分かれており、「途中から初めて途中で終わる」という用途にも適している。しかし問題はその厚さだ。『遊歩大全』は九百頁以上もあるのである。この本を支えながら食事をするのはさすがに無理である。
文芸書の棚である本に気づいた。岸本佐知子『なんらかの事情』(筑摩書房)である。
おお。
これがあったか。そうだ。岸本佐知子の第三エッセイ集が出ていたのであった。
翻訳小説好きな方に岸本佐知子を改めて紹介する必要はないだろう。そして岸本佐知子のエッセイが抜群におもしろいということも、わざわざ断る必要はないだろう。第一エッセイ集『気になる部分』(ちくま文庫)、第二エッセイ集『ねにもつタイプ』(白水uブックス)のいずれも愛読書である。短い文章の集まりなので、ちなみに『ねにもつタイプ』で岸本は第二十三回講談社エッセイ賞も受賞している。
ちなみに前回『ことばの食卓』について書いた際、何かを言い落としていると思ったが、冒頭の「びわ」を紹介した個所は、平松洋子氏の『野蛮な読書』(集英社)で読んで知ったのだった。そのことを書かずにおくと、まるで私の手柄のように思われてしまう。平松さんに教えてもらいました。ちなみに『野蛮な読書』も講談社エッセイ賞の受賞作である。
レジでお金を払い、本を手に入れた。なぜか子供まで本を持ってきていて、それを買わされた。なばたとしたか『こびと大百科』(長崎出版)という本である。例のこびとづかんという気色の悪いキャラクターの関連書である。君も変な趣味をしているね。
さて、これで「ながら食べ」に最適な本が手に入った。
できるだけ汚いラーメン屋に行かなければいけない。
この「できるだけ汚い店」という思考回路については説明が難しい。岸本佐知子の瀟洒なエッセイを読むのに汚い店を選ぶやつがいるか、と叱られそうな気もする。たしかに。
強いて理由を挙げるならば、これはバランスの問題だ。岸本佐知子のエッセイを読みながらお洒落なカフェ飯、というのはなんだか決まりすぎて恥ずかしい感じがするではありませんか。私の住んでいる駅の近辺にはいくつかラーメン屋がある。その中でも某激戦区で勝ち抜いた有名店ののれん分けであるAとか、麺を自家製しているのが自慢でいろいろな種類のスープがあるBのような有名店は、これまた岸本佐知子とはミスマッチのような気がする。
もっとこう、ラーメン以外の定食が売り物である食堂とか、味は今一つだが盛りだけは定評があるところとか、そういうものが合っている。そういう意味でいちばんいいのは、とにかくしょっぱくて油っこい味つけのCだという気がした。炒飯を頼むと、最後に必ず皿の上に油溜まりができている、冷やし中華を夏に頼んだらキュウリをキャベツで代用した(たぶんキュウリを買うのがもったいなかったんだと思う)、水がいつも生ぬるくてカルキ臭いCがよい。
そういう店でがさがさと乱暴に読むのがよいのではないだろうか。
店全体が油でコーティングされたようなCで読まれるとは、さすがの岸本佐知子も思うまい。
あのしょっぱい味つけで思わず「トゥーマッチ」と叫びたくなるCだからこそ、岸本佐知子文体のつるんとした手触りがよく合うのである。
柔よく剛を制すというか、未知の文明同士が遭遇する瞬間というか。
そんなことを考えながら子供と歩いていたら、Cの前を通り過ぎ、Pという店にすぽんと入ってしまった。
PはCとは似ても似つかない。いわゆる創作系のラーメン屋である。店員が作務衣を着ていてトッピングに「味玉」があり、味噌はなくて塩ラーメンが売り物である、と書けばだいたい中の雰囲気は察してもらえるだろう。
Cの前を通り過ぎてしまったには理由がある。その先におかしのまちおかがあるのだ。まちおかには明治のカルミンが売っている。私はカルミンが大好きなので、ついついまちおかを見るたびに寄って買ってしまう。まちおかを出たら綺麗さっぱりCのことは忘れ、目に付いたPに入ってしまったというわけだ。
まあ、仕方ない。せめてもの抵抗として「味玉」の入っていない普通のラーメンを頼むことにした。水が普通のコップではなく、なんというのだろうあれは、番茶を飲む湯飲みを透明にしたような、つまり小洒落た器に入って出てくる。
気に食わない。
しかし諦めて『なんらかの事情』を読むことにした。横で子供は『こびと大百科』を見ている。こびとは案の定気色悪い顔である。
最初に書いたようにひとつひとつの文章が短い。原稿用紙十枚分もないだろう。
それなのに読者の虚をつくような文章が必ず一つは入っている。途中に出てくることもあるし、結びの一文がそうであることもある。だから読んでいて少しも安心することができず、いつ変なところにこの人は入っていくのだろうか、と警戒しながら読むことになってしまう。
普通の人が書くエッセイは、起承転結の起と結が呼応していることが多い。出だしのところに話が戻ってきて、ああ、やっぱり、なんて読者を安心させて終わったりする。
それから最後のところで少ししんみりさせたりもする。子供/庭木/母(祖母も可)の味/猫/恩師/父の遺品。まあ、どれでもいいのだが、このうちなにかを持ってこられたら、日本人はしんみりするはずである。
そういうことを岸本は一切しない。読み手の心をざわざわさせたまま、突然「終わり」と言って話をしめくくったりする(これは比喩です)。ひどいときは鼻歌を唄いながら向こうに言ってしまったりする(比喩です)。そして向こうで、まちおかで買った煎餅か何かをかじりながらこっちを見ている。バリバリ、お客さん、もう帰ったら?(比喩)
最後の段落だけを試しに抜粋してみよう。とても静かなのだが、そこにしんみりという感情は存在しないということは理解していただけると思う。故・古今亭志ん生の言うところの「むく犬の尻にノミが入ったような」気持ちにさせられる。
戻ってきて、鍋つかみ用のミトンを両手にはめると、本を広げ、読みつづける。
蜜月ではあるが、それはもう傘ではない別の何かだ。
二人が潜んでいるのは、あの最後の曲がり角の、生け垣の角だ。私は大きく息を吸い込み、猛ダッシュする準備をする。
そんなことを考えているうちに頼んだラーメン(味玉なし)とラーメン(味玉入り)が来た。味玉入りが子供の分である。
ラーメンを食べながら「上映」という章を読む。気が浮いたのだが、この本のリズムはラーメンを食べるのに非常に適している。岸本が書く。
死ぬ間際には、それまでの人生の思い出が走馬灯のように目の前に立ち現れるとよく言われる。
ふんふん。麺をたぐる。この店はちぢれのない細麺で、プラスチックの箸(エコ)だとたぐりにくい……と思いきや、箸に三好清海入道の棍棒のようなぶつぶつがついている。そのへんの工夫がまたしゃらくさいのである。
次の文章。
その走馬灯の準備を、そろそろしておいたほうがいいのではないかと最近思うようになった。
ずるずる。麺をすすっている。次の文。
「死ぬ時はたぶん苦しい」で始まって「いい人生だったなあと思いながら死ぬことができようというものだ」の間まで約四行分咀嚼している。医者に早食いは慎むよう言われているので、よく噛むのだ。ごっくんと飲み込んで次に行く。
こんな調子。ちなみにこの店のスープはしょっぱいので私は飲まない(店にはなにやらの出汁となにやらの出汁をあわせて云々、という貼紙がしてあるが、単にしょっぱいだけだと私は思っている)。どんぶりもよくあるタイプではなく、サラダボウルのような形なので持たない。
ふむふむ、ずるずる。
ふむふむ、ずるずる。
ふむ。しゃく(支那竹を噛み切る音)。ふむ、ずるずる。
突然、
鼻ってくさい!
という文章が出てきて噴き出しそうになる。いや、少し噴いてしまう。だから私の『なんらかの事情』の四十二ページにはぽつんと一箇所しみがついている。
これだから油断ができない。幼少のころの作者が「鼻の先端を指で下向きに押さえ、唇をタコのようにすぼめて鼻から息を吸う」実験をしている。
岸本佐知子は言葉に祝福された書き手だと本気で思うが、その祝福の賜物をこういう形で文章にしなくてもいいのに、とこれまた本気で思う。
ずるずる。
こうして麺をたぐり、すすることを繰り返し、何回かにいっぺん噴き出しそうになって食事は終わった。別にいいのだが、この店では紙ナプキンがあの「マクドナルドによく置いてあるしゅっと抜き出す容器を縦型にして二まわりくらい小さくしたもの」に入れられていて、それがなんとなく癪に障る。しゅっしゅっと取り出して使う。岸本はちょうど自分が自分の胃の中に入ってしまうところを書いていた(「遺言状」)。
すさんだ腹黒い自分に、こんなきれいな部分があるのが不思議だった。そこは何だか居心地のいい部屋のようだった。床も壁も天井も、ふかふかのピンク色のカーペットを敷きつめた小部屋。子供のころ、こんな隠れ家に憧れていたような気がする。私は小部屋にそっと寝ころんでみた。
どこかでこれによく似た情景を見たことがあるような気がした。
そうだ、喜劇役者のハーポ・マルクスだ。ハーポが演じる役はいつも何もしゃべらない人物なのだが、着古したレインコートの中から取り出したもので周囲を翻弄し、ハサミで手に触れたものをすべて切り刻み、スープ鉢の中身をこぼし、テーブルクロスを晴れ着のようにまとったあとで、周囲を睥睨し、まるで桃源郷にいる自分を発見したかのようなうっとりとした表情をしてみせる。破壊の限りが尽くされた世界は、ハーポの目にはゆりかごの中の光景のように移っているのだろう。至福の表情を浮かべたまま、ハーポは眠りにつく。映画館に詰め掛けた観客は、その表情に何かを感じるのだ。
岸本佐知子の見せるものは、あのハーポ・マルクスによって破壊し尽くされた部屋によく似ている。すべてが失われた部屋の中に、すべてを手に入れたような満ち足りた表情で眠っている人がいる。ガラス窓の向こうから私たちは、なすすべもなくそれを見ている。絶対に手が届かない。その中の住人になることもできない。しかし眺めているだけで満ち足りた気分になる、野蛮で乱暴で、しかし穏やかな情景。
揃ってラーメンの器をカウンターの上に置き、私は子供と店を出た。おぎやはぎの背の高いほうによく似た青年が入れ替わりで店に入っていく。
こうして――
さしたる不満もなく私は家に帰った。