某月某日
朝一番でやらなければならないもろもろを片付けてそのまま浅草木馬亭九月公演の四日目に。銀座線田原町駅からの道を急いでいたら、夏休みに入っていた立ち食いそばの一八が無事に営業再開しているのが目に入る。この時期、店が開いているというだけで安心してしまう。
魚屋本多 東家恭太郎・水乃金魚
遊女の国旗 国本はる乃・馬越ノリ子
絵姿女房 澤雪絵・佐藤貴美江
阿波の鳴門 富士琴美・水乃金魚
仲入り
幡随院長兵衛伝 長兵衛嫁取り 東家孝太郎・伊丹明
五平菩薩 神田香織
梅山家の縁談 大利根勝子・伊丹明
滝の白糸 澤孝子・佐藤貴美江
この日の収穫はとにかくモタレからの二席に尽きる。大利根勝子さんの「梅山家の縁談」は、良縁に恵まれた義妹を憎む姉と継母が、少女の顔に茶釜の煮え湯を浴びせかけるというすさまじい場面から始まる物語だ。いくらなさぬ仲とはいえありえない憎悪の激しさで、帰宅した梅山に対して継母がいささかも悪びれずにせせら笑うような態度を取るのがまた凄い。サイコパスとしか言いようのない人物像である。婚約者親子の愛情によってハッピーエンドになるかと思いきや、最後にとんでもない展開が待っていて気になるままに幕切れが訪れる。グラン・ギニョル趣味とでも言うべきか。とにかくこのネタの聴きどころは煮え湯を浴びせかけられるところの絶叫で、人間がここまで大きな声が出せるものかと感動さえ覚える。予告が出ていたら絶対に聴きに行くべきネタ。儲かった。
もう一席は泉鏡花原作・大西信行脚本の澤孝子さん「滝の白糸」で、法律を学ぶ恋人のために金を仕送りしようとする芸人の白糸が、強盗によってせっかくこしらえた三百円を盗まれる。投げつけられた出刃包丁を手によろめいたところが金貸しの門で、そこをくぐってしまった先は「地獄の道」なのであり、何があっても金を作らなければならないという執念が女を狂わせる。普通の人が凶悪犯罪に手を染めてしまうという話なのであり、狂を発してからの緊迫感が素晴らしい。後半は一点して法による裁きの場面となるが、そこで憑き物が落ちたように穏やかな顔を見せる白糸が哀れである。妄執に駆られたときの殺気に満ちた顔と、素顔の可憐さとの落差がこの話を第一級の心理劇にしているのだが、節がスリルの源泉であることも忘れてはいけない。浪曲だからこそ演じうるスリラーの形だ。
終演後は急いで帰宅して仕事に戻る。途中で中目黒の美術専門古書店デッサンを覗くと、なんと店を開けていた。緊急事態宣言の自粛要請に応じて休業し、その後もしばらく閉じたままだったのだ。店が開いているという当たり前のことがこんなにありがたいとは。
その先の杉野書店は安定のお休み。いや、どこかの古書市にでも出ていたのかも。