某月某日
浅草木馬亭十月公演千秋楽。一回は通しで興行を全部聴くということを浪曲についてやらなければいけないと思っていた。そうしないと見えてこないことがあるはずで、今回の七日間は、自分にとって非常に勉強になった。こういう意図で今日は番組が組まれているのかな、などと推測する楽しみもあったし。
双葉山 東家三可子・東家美
魚屋本多 東家恭太郎・水乃金魚
観世の宝肉付きの面 天中軒月子・伊丹明
清水の頑鉄 イエス玉川・玉川みね子
仲入り
弥作の鎌腹 東家一太郎・東家美
黒雲お辰 宝井凌鶴
老人と若者たち 富士琴美・水乃金魚
天野屋利兵衛 天中軒雲月・伊丹明
「双葉山」は力士伝としてもう何度も聴いているが、三可子さんの節は回を追うごとに上達していっている気がする。啖呵も安心して聴くことができる。語尾の一つひとつに至るまでおろそかにされる言葉がないので、非常に綺麗な日本語になっている。三楽一門は努力家が多く、切磋琢磨が窺えるが、中でも若手として三可子さんに期待しているファンは多いと思う。ここから年季明けまでどれだけ成長するのか本当に予想ができない。
「魚屋本多」おなじみの外題で、そろそろ別の話が聴きたい気がする。恭太郎さんは声が柔らかいので、聴いていて不快に感じる個所がない。これは素晴らしいことで、願ってもない個性だ。私は侠客ものを聴いたことがないのだが、他にも手をつけてないネタはいろいろあると思う。読み物を増やしてあの声でどう演じるのかを見せてもらたい。
「観世の宝肉付きの面」師匠の雲月さんが体調不良ということもあったのか、東京ではしばらく出演がなかった月子さんは、実は半年ぶりくらいの木馬亭のはずである。最初に「湖西市出身の」と話し始めたので豊田佐吉伝かと思ったがさにあらず。この外題は他の一門で演じられるのとは異なり、冒頭に四谷太宗寺閻魔の由来が語られるなど、源之助の名工伝という性格が強い。父・源太郎と観世太夫との関係が語られるのが遅いので、その話一本で演じられる形よりは、因縁話の性格がやや薄くなっている。月子さんを聴くときはいつあの高音が出るかと期待しているのだが、随所で心地よく、満足した。
「清水の頑鉄」先日は漫談を枕に途中で切ったので、今回は枕なしでいきなり入る。このところ定着してきた演じ方だ。忠治の敵を倒そうと頑鉄が勘定を焦るのに、「パチ、パチ」と女将の不慣れな算盤がいつまでも終わらず「セコい芸人が拍手もらってんじゃないんだから」とぼやくところなど、ところどころで素に戻るくすぐりを入れながらも、その都度難なく本筋に引き戻していく融通無碍な語りで、非常に楽しく聴ける。イエスさんが演じる侠客は「俺は忠治の子分になっちゃう」とか、時に半分演者が入ったような個性を見せる。そのへんが他の演者に真似のできないところで、年季の為せる技だろうと思う。来月も楽しみ。
「弥作の鎌腹」は赤穂義士外伝で、神崎与五郎の兄・弥作の物語である。浮かれて踊ったり、怒って弟に感動を申し渡したりと、喜怒哀楽を露わにする実直さが魅力のキャラクターで、一太郎さんも弥作が憑依したかのように感情豊かに演じる。後半の急展開、美さんの三味線と一体になってのバラシはスリル満点であり、最後に絵面がまざまざと浮かぶ情景を描いて終わる。ここに見事な解放感がある。
「黒雲お辰」三門博「唄入り観音経」とよく似た構成を持つ大岡政談で、途中に浪曲の節真似がはいるのがご愛敬、話の作りは夢物語ではあるのだが、金を奪われた老人とお辰のキャラクターがうまくかみ合っているので進んでいく。裁きの場面などは、たしかに浪曲の後半部にもよく似ている。いろいろ発見があって興味深かった。
「若者と老人たち」現代ものの人情話で、ホームの老人と郵便配達の青年の温かい交情を描く。私の好きな琴美節の一つが出てくるので今か今かと待ち構えて聴いた。途中で慰問の場面があって、御年95になるという松田花子さんが「さのさ」を唄うところがあり、ここにしんみりとした情があって好き。花子さんが舞台に上がるとき、息が切れてしまって終わるときにホームの人たちは拍手を送るのだが、このとき木馬亭のお客も一緒になって手を打つ。物語が醸し出そうとしているヒューモアと自分が一体化した感じがあっていい。
「天野屋利兵衛」昨年の復活舞台、浅草公会堂でも掛けられた、雲月さんの十八番の一つ。赤穂浪士の手助けをしたという一言を吐かせるために西町奉行松野河内守が、利兵衛の愛児芳松を火責めにかけると脅す。「ととさま、熱い」と泣く我が子の前で利兵衛は引き裂かれるような葛藤をするのである。一度は口を割りかけて「いやいや違うそうじゃない」と思い直して拒絶すると松野河内守から「血も涙もないのか」と詰られる。利兵衛が感じるであろう口惜しさ、情けなさは強く胸を打つし、そこから「天野屋利兵衛は男でござる」の叫びまで観客も息が詰まるような緊張を味わう。それがやっと解けて大団円に至るまでの心地よさは節で聴かせる浪曲の醍醐味であると思う。これを求めて会場に足を運ぶのだ。先日の「若き日の小村寿太郎」がやや試運転の感があっただけに、本日の公演を聴いて雲月さんは復活された、と喜んだ人は多いと思う。もちろん演者にしかわからない自己への不満、技芸の完成への渇望はあって当然なのだが、観客はただ、聴いて応援するだけだ。
すべてを聴き終えて満足し、帰る。一つだけ残念なことは、ある演者のときに、三度まで声掛けをしたお客がいたことだ。つい出てしまったのではなく、マスクを外して声を上げていたので、承知の上でやったことだ。常連のNさんに注意をされてようやく止めたが、それがなければ最後まできっと声を出し続けたと思う。
現時点で木馬亭定席公演では、飛沫防止の観点から掛け声は「たいへんありがたいが」禁止だとはっきり言明し、アナウンスでも徹底している。そのことをみな承知し、応援の手段として声が掛けられないことを残念に感じつつも、決まりだから仕方がないことと我慢しているのだ。中にはプラカードなどを持参して応援をしている方もいる。そうした他のお客の気持ちを踏みにじる行為であり、また協会や会場の予防策を意味のないものにさせてしまう、許すべからざる違反である。声を掛けたのはけっこうな高齢者だったが、本来は若い人の模範になるべきなのに恥ずかしいとは思わないのだろうか。