両論併記などでごまかさず、自分の意見をはっきりさせなければならない。
前回そう書いたことと正反対のことを言うようなのだが、世の中のことに対してなんでも意見を表明すればいいというものではない。
自分ではわかっているつもりでも、実は浅くしか理解できていないということがいくらでもあるからだ。というか、わかっていることのほうがどう考えても少ないだろう。私は書き物の仕事を始めるにあたり、専門知識がないことについて踏み込まないで活動することを最初に選んだ。知ったかぶりをして間違った言説を広めてしまうのは恥ずかしい行為だ。自分には音楽についての基礎教養がない。そういう人間が使っていい音楽用語は、せいぜい中学で習う程度のものだろう。
小説の書評でよく使われる表現に「通奏低音」というのがあるが、あれもちょっと怖くて手が出せない。ツーソーテイオン。発音してみると実にいい響きである。七五調にもぴったりくるので使いたい気もする。「通奏低音しだれ梅」とかどうですか。しかし意味がよくわからなくて使えないのである。演奏の間ずっと鳴っている低い音ってことですかね。ベースのぼんぼんいわせている音とか、あれっすか。ちゃんと説明できない。
同じ理由で「ロック」もあまり使わないようにしている。「ロックロックと申しましても世の中広うござんす」とか言われそうだ。あらすじ紹介とかで「ロックバンドを組んでいる〇〇は」みたいなことを書かなくてはならないときは、いつも決まりの悪い思いになる。作中で登場人物がやっているのが本当にロックなのかどうかが自分にはよくわからないからだ。そういうときは「音楽活動をしている」みたいに、遠回しの表現を使うようにしている。それでもだいたい意味は通じるからいいのである。もちろんパンクとかメタルとかそういう細かいことには踏み込めない。そういうのは詳しい人が書けばいいと思う。
自分が間違いを指摘されて恥ずかしいだけで済めばいいのだが、それでは済まないことも世の中にはある。最大のものは宗教だろう。三代宗教だけとっても裾野は広く、それについて書く際には弁えておかなければならないことがいくらでもある。宗教はそれを信仰する人にとっては文字通り存在に係わる重大事であり、軽く考えることはとてもできない。こういう仕事をしていると宗教に係わる記述で基礎的な知識を要求される場面は非常に多く、浅学を指摘される覚悟で踏み込まざるをえない。少しでも間違いを減らせるように自分で努力する以外に途はないのである。
宗教に限らず、自分が当事者ではない分野について書くときは、常にそうした配慮が必要になる。わからなければわかるまで勉強してから書け、発言しろ、ということだ。さらに言えば根本的な問題として、そもそも自分がそのことを書くに値するのか、書こうとしているものは当事者にとってどういう意味を持つのか、という前提に思いを馳せなければならない。「あんたのつまらない原稿のためになぜわれわれが損をしなければならないのか」と言われて、いや、これは意味のある行為なんだ、と言えるかどうか。
物書きは好奇心を原動力として前に進んでいく仕事だが、単に知りたいからというだけで首をつっこんでいいものなのだろうか。
この仕事を続ければ続けるほど、そうした問いが内なる声として聞こえてくるようになる。
自身が当事者ではない問題として、たとえばセックスワークという分野がある。ここにリンクするのは、昨年の八月に発表された「性産業の禁止は、働く人にどんなリスクを生むか Save us from saviours!」という文章である。書かれたのは、セックスワーカーの健康と安全のために活動するSWASHというグループの代表を務める要友紀子氏だ。セックスワークについて私は何事かを発言できるほどの知識は持ち合わせていないのだが、記事内で提起されたいくつかの懸案事項を読んで、さらにその思いを強くした。そこにある根源的な問題については考えつつも、なお迂闊な発言は慎もうと思った次第である。
なんでもかんでもいっちょがみすればいいものではない。わからないことには勉強不足ですみませんと言うべきだ。無知の罰としてもちろん恥はかくだろうが、おかしなことを言って人を傷つけるよりはそのほうがよほどいいのである。(つづく)