私の筆名は、英語表記では「Sugie McKoy」が正式である。Mcというのはスコットランドやアイルランドの姓につく接頭語で、ゲール語の息子を意味する言葉が起源らしい。Ed McBainなどの好きな作家にそういう名前が多かったので筆名を作るときにつけられたらつけようと思っていた。マッコイという名前はMcCoyと書くほうが一般的なのだが、正式な英語名ではないので字面を優先してこれでいいのだと言い張っている。
ちなみに姓名の順で標記すれば英語表記ではMcKoy Sugieなのだが、これも可能であればSugie McKoyにしていもらっている。Kはできれば大文字希望。しかし向こうが小文字にしてきたらおとなしくそれを受け入れる。そういうことを声高に主張するのは恥ずかしいという思いがある。このあいだ、Makkoi表記のゲラが来てしまった。ついに、という思いである。McKoyが正しいのです、と言いたい気持ちと三十分くらい格闘して、そのまま通してしまった。できればローマ字表記はやめてもらいたいのだけど、ここで書いてもあまり意味はないだろう。
スペルがそうなので「マッコイ」が正式なのだが、自分で人に名乗るときには「マツコイ」と発音している。理由は、これも恥ずかしいからである。なんかねえ。でも、他の方から「マッコイ」と呼ばれるのは別にいいのである。筆名として正しく機能しているな、と思う。しかしたまにラジオなどでディレクターの方から「これはマッコイが正しいですか、マツコイですか」と聞かれると自分でつけた名前なのにいささか気まずい思いをする。機能としては識別のためにある名前であって、自己主張は意図していないのだ。
これでわかるとおり杉江松恋という名前は完全な造語で、本名の要素はまったくない。看板であり商標である。看板なので間違われると困る。しかし、間違いは誰にでもあることなので、別に怒るべきことではない。原稿の依頼状などにはよく「松江松恋様」とか書かれているが、そのままにしている。半々の確率で「お名前を間違えてしまい失礼しました」という追伸がくる。こないことも多い。そのままにしておく。完全な作り物の名前なので、間違えられていても識別符として機能していればそれでいいのだ。仕事が別の松江さんのところにいってしまったらそれは困るが。
こんな風に筆名について考えるのはたぶん、自分というものについての認識が箱を重視しないからではないかと思う。杉江松恋というのはあくまでパッケージであって、売りたいものは中身なんだよ、と考えている。他人のお名前を間違えるのはやはり失礼なことだし、自分がやってしまったら謝るのは当然だが、自分についてはそこは正直どうでもいい。この名義を指して仕事が来ればそれでいいのである。そういう感じの名前の人が何かしているという印象が漠然と残っていればいいのである。
名前というか、公的な場において自分なんてその程度のものにすぎない。
だから体面を傷つけられた、なんて怒るのは本当に無意味なことなのである。(つづく)