個人の考えがあるにはあるけど、その元になっているのはほとんどどこかで覚えてきたことで、自分だけでそこに至ったものはまずない。
そんな風に思うようになっていたので、若いうちから目上の人の話は素直に聞いていた。さすが長く生きてきただけあって、受け止めるに値するものが何かある。なので機会があれば年長者の言うことには耳を傾けるようにしていたのである。もちろん社交術としてそうしていたという面もあったが、根が嫌いなほうではなかった。
落語などの公演ではお客さんと演者を交えた打ち上げがあるものも多い。そういう場には、かなりの確率で「俺の話を聞け」タイプの人が混じっている。歌舞伎には「團菊爺さん」という言葉があって、「あの團十郎と菊五郎を聴いたことがある俺」というのを自慢せずには話ができないという向きのことを言う。あの、って言ってもいつの團十郎と菊五郎なんだ、という話なのだが。現代の落語で言うと「文楽・志ん生・圓生」あたりになるのか。
落語版の團菊爺さんもそういう昔の話をするのが大好きなのだが、初めは好意的に聞いていた周囲の人たちも、ご高説を伺うのが面倒くさくなって次第に遠ざかっていってしまう。そうなると気弱な人とか何も知らない初心者をやっきになって囲い込もうとするので、私は割って入っていってなるべく聞き役を務めることにしていた。爺さんも話を聞いてもらいたくて残っているのだから、ちょっとかわいそうである。その結果、実は落語を聴き始めたのは会社を定年になってからで、全部CDで聴いただけ、という衝撃の事実が判明してずっこけることもあるのだが、それはそれでご愛敬というものである。たまに、これはというような芸談も聞けることがあるしね。
そんなわけで年長者との付き合いは苦にならないのであるが、幾度か、これはどうなんだ、という目に遭ったこともある。
仮にAさんとする。Aさんはたいへん博識なのだが、頭のいい方にありがちで、他人が馬鹿に見えてしまう傾向がある。付き合いのあったころはそうは思っていなかったのだが、疎遠になってから、ああ、あれはそういうことなのだ、と納得したのである。ある日Aさんとやりとりをしていたら、こちらの言葉尻が気になったものか、君は間違っている、そういう考え方がはびこるから世の中はどんどん駄目になっていくのだ、と叱られ、後は何を言っても取り合ってもらえなくなってしまった。
あらら、と思っていたらしばらく経って別のことがあった。多くの人がメールでやりとりをする中で誰が言ったものかわからないが、あることについて私が犯人だとAさんは思ったらしく、いきなり説教をくらってしまったのである。それに関しては完全に冤罪なのだが、説明すると前回と同じで逆に手ひどく叱られることになるだろうと思い、私は聞き流してしまった。
そこですっと気持ちが冷めてしまい、Aさんとは距離を取ることにした。
仏の顔も三度までというが、目上の人間についてはそんなに我慢しなくていいのではないだろうか。一回で投げ出すのは短慮だという気がしないでもないが、二回やられたらその人間関係は諦めていいと思う。世間は広い。知り合うべき人はたくさんいる。その人と付き合うとこちらが傷つけられることになるかもしれないと思ったら、そこが退け時である。
マウンティングという行為があるが、その場所に身を置いていたらどんどん乗っかられるだけなのである。打ち上げで團菊爺いの話を聞くのはその場限りだからちょっとぐらい損をしてもいいけど、ある程度続けなければならないような人間関係だったら無理をすることはないのである。いや、打ち上げだって、どうでもいい他人の自慢よりはもっと楽しい話題がいっぱいあるわけだが。
どんな人間関係にも得るところはあるものなのだけど、100いいことをしてもらっても1傷つけられたらそれは台無しになる。差し引き99ではなくて、1で駄目になるのだ。そのくらいの慎重さでちょうどいいし、我が身大事にしても責められる筋合いはない。いばりんぼや怒りんぼと我慢をしてつきあわなくても、同じくらいいいことを教えてくれる人は他にいる、きっと。(つづく)