杉江松恋不善閑居 木村勝千代独演会「木村派の連続読みを聴きたい!」開催のお知らせ

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ここ2年ばかり、暇を見つけて浪曲ばかり聴いていたのですが、思い切って自分でも浪曲会の開催お手伝いをしてみることにしました。

浪曲師木村勝千代さん、曲師沢村豊子さんによる「慶安太平記」連続読みの会です。「慶安太平記」とは、由比正雪による天下簒奪の陰謀を描いた大パノラマ劇。大正年間に人気絶頂であった初代木村重松の十八番です。吉川小繁と名乗っていたころの酒井雲右衛門、後に浪曲界中興の祖と称えられることになる名人の門下に初めは入りましたが、その師に捨てられるような形で木村重勝に拾われます。重松と名乗ってからは二十五歳で深川柳川亭で看板披露興行を開き、以降は関東浪曲界で盤石の地位を築いていきました。正岡容はもともと大の浪曲嫌いでしたが、金子光晴に「重松だけはいいからぜひ聴け」と口説かれて重松の「新蔵兄弟」に触れ、感服したということを『日本浪曲史』に書いております。

「慶安太平記」の怪僧善達の箱根越えでも、青く美しい箱根連山の山脈が、手に取るようにうかがわれた。

〽あれ見よ足柄山は今に浮気は止まぬぞよ けさの寒さに二子かかえて薄化粧

木村勝千代さんは、その木村重友からの孫弟子に当たります。師匠の木村松太郎が初代重松に入門したのは1913年、15歳のときでした。そのまま昭和30年代までの浪曲全盛期を駆け抜けて1963年に芸歴50年を区切りとして引退、隠居生活に入っておりましたが、立川談志の懇願を入れて復帰。談志は当時、参議院議員選の公約でもあった目黒演芸場の席亭を勤めており、自分が大の贔屓としていた松太郎を高座に戻したいと熱望したのでした。初めは限定復帰のつもりでしたが、やがて本格的に芸人に戻ります。その松太郎が浅草木馬亭に出演していたのを聴いてすっかり惚れこみ、ぜひうちの娘を弟子に、と申し入れたのが木村勝千代さんの御父君でした。ご両親が大の浪曲ファンだったため、いつの間にか勝千代さんも二葉百合子「岸壁の母」や廣澤虎造「森の石松」をすっかり諳んじていたのだとか。80歳の松太郎に入門し、わずか11歳で木馬亭デビューを飾っております。

勝千代さんはその後学業と並行しながらプロの浪曲師としても活動しておられましたが、一時休業、近年になって日本浪曲協会に復帰され、師亡きあと「唯一の木村派」として再び活動をされております。浪曲には関西節と関東節という出自の異なる二つの流派がありますが、現在は前者の演者が多数を占めます。貴重な関東節の一人である勝千代さんをもっとたくさん聴きたいと以前から願っておりましたが、このたび思い立って自分で会を開催する運びとなりました。慣れない浪曲興行ですが、精一杯差配を勤めたいと存じます。

今回の会では「慶安太平記」の発端にあたる「善達箱根山」と「吉田の焼き打ち」の二席を予定しています。「善達箱根山」は江戸の芝増上寺から京都の本山に三百両という大金を届けることになった坊主の善達が謎の飛脚に付きまとわれるというスリラータッチのお話。浪曲の節に、地名や土地土地の名物名所を読み込んだ道中付けがありますが、それが楽しいお外題(浪曲のタイトル)です。

右が大山街道で

左が南郷の松原で

馬が乗りこむ馬入の渡しで

槍も長押に平塚から

花水橋をばチョロリと越えたら

右が高麗寺山で

左が唐ヶ原で

大磯がしや(大忙しや)と小磯から

寒紅梅が梅沢の名物は

鮟鱇の吊し切りで

一杯やったら美味かろうが

なかなか呑んではいられない

「吉田の焼き打ち」はその続きで、東海道吉田宿は現在の豊橋市です。朝箱根山を下ってきたばかりの善達がその日の夜に豊橋まで行ってしまうというのはいくらなんでも早すぎる。横に長い静岡県、伊豆・駿河・遠江と三州を一日で横断できてしまうわけはないのですが、そこが浪曲のいいところ。善達は一日に四十里から五十里を走るという駅伝顔負けの健脚なのです。この吉田宿での騒動は、立川談志が落語に仕立てておりますし、弟子筋にも受け継いでる方がいますのでファンはお馴染みでしょう。

二席どうぞお楽しみに。新型コロナウイルス感染防止には万全の注意を払って臨みます。浪曲ファンも初めてお聴きになる方も、ぜひいらっしゃってください。

日時:4月18日午後2時開演(午後1時30分開場)

場所:神楽坂レンタルスペース香音里(新宿区天神町17)

木戸銭:2千円(限定20席予定。ご予約ください)

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