翻訳ミステリー大賞シンジケートの人気企画「必読!ミステリー塾」が最終コーナーを回ったのを記念して、勧進元である杉江松恋の「ひとこと」をこちらにも再掲する。興味を持っていただけたら、ぜひ「必読!ミステリー塾」の畠山志津佳・加藤篁両氏の読解もお試しあれ。
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アイリッシュ=ウールリッチは『幻の女』がたいへんに有名ですが(江戸川乱歩が大いに持ち上げたため)、あの作品は着想と構成が齟齬を来たしている面があり、個人的には作家の代表作とはちょっと認めがたい。むしろウールリッチ名義に秀作はたくさんあります。原題に「黒」を意味する語を含んだ一連の作品は特にお薦めしたい。『黒いアリバイ』は記憶喪失の人物を主人公に据えたスリラーの大傑作で、後続作品の原型にもなりました。有名なのは、オムニバス形式で話が進んでいく『黒衣の花嫁』(一時期ハヤカワ・ミステリ文庫では、二時間ドラマ化された際に主演した十朱幸代の表紙になっていました)と『喪服のランデヴー』で、これは甲乙つけがたい。オムニバス形式ですから構造は単純なのに引き込まれてしまう。各章のエピソードに力があるのはもちろんですが、個々の登場人物の淋しげな肖像がいいのです。特に私が偏愛しているのは『恐怖の冥路』、原題はThe Black Path of Fearですから、これも「黒」のシリーズです。登場人物は数名しかいないのに、実にサスペンスフルです。そして、壮絶なほどに読者の感情を励起するあのラスト。一度読んだら絶対に忘れられなくなります。残念ながら品切なので『マストリード』には収録できなかったのですが、何か1冊アイリッシュ=ウールリッチを、と言われたら私は迷わず『恐怖の冥路』を推すでしょう。
『暁の死線』についてはお二人のご意見にほぼ賛同します。そもそもデッドラインの設定が変。でも、そういう作家なのです。『黒衣の花嫁』/『喪服のランデブー』が単なる芋つなぎの連作にすぎなくても読まされてしまうのは、各章に横溢するロマンティシズムがあるから。『恐怖の冥路』が単純な話なのに後に忘じがたい印象を残すのも、無視できない、絶対に共感したくなるような人間観、人生観が仄見えているからです。『暁の死線』に文句を言いつつも最後まで読んでしまった(きっとそうなるはずです)方は、ぜひ他の作品にも手を出してみてください。あ、創元推理文庫他から出ている短篇集もお薦めです。長篇の尺が必要ではない分、より切れ味の鋭い物語が短篇では楽しむことができるはずですから。