翻訳ミステリー大賞シンジケートの人気企画「必読!ミステリー塾」が最終コーナーを回ったのを記念して、勧進元である杉江松恋の「ひとこと」をこちらにも再掲する。興味を持っていただけたら、ぜひ「必読!ミステリー塾」の畠山志津佳・加藤篁両氏の読解もお試しあれ。
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『スパイたちの遺産』が刊行になった直後にこのコーナーが更新されたというのも何かの縁かと思います。同書は『寒い国から帰ってきたスパイ』と『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の正統な続篇にあたるため、この二冊を読んでから手に取るのとそうでないのとではまったく読み心地が違うはずです。作中には完全なネタばらしもありますしね。
作者の経歴については本文中でも触れられていますが補足したいと思います。ジョン・ル・カレことデイヴィッド・ジョン・ムーア・コーンウェルの人格は二つの大きな要素によって決定づけられました。一つは、詐欺師のような性格の父親ロニーがことごとく息子の生活を監視し、干渉しようとしたこと。もう一つは軍役の過程で諜報活動に属したことです。家庭内において権威者として振る舞おうとする父親がまったく信用のならない人物であったために、ル・カレには根源的な不信感が宿りました。また、冷戦体制下で従事した諜報活動にはイアン・フレミングが描くスリリングな要素はまったくなく、退屈極まりない日常の中で誰もが目的を見失って生きているようにル・カレの目には映りました。ル・カレはそうした相互不信と視界不良の世界観を表現する手段として小説執筆を選びましたが、自分の知っている組織をそのまま書くことをせず、権謀術数に満ちた架空の英国諜報部を作り上げたのです。彼の創作物は現実の裏返しであり、それゆえに実在感があります。隠語のような細部のディエールがしっかりしているだけではなく、誰が何をしているのか本当にわからないという暗中模索の状況をフィクションにも移植したのでした。そのことが彼の小説にジャンルを超えた普遍性を与えたのだと私は考えます。
『マストリード』の刊行当時、現在よりももっとスパイ小説は手に取りにくい状況にありました。このジャンルを現実の鏡像と考えれば、刻々と移りゆく国際情勢の中で過去を描いた作品が価値を失い、読まれなくなっても仕方ないといえるでしょう。ただし、ル・カレ作品が獲得したような普遍的価値を無視することはもったいなさすぎます。どんな時代においても一読に値する、いつでも繰り返し読むことができる、そんなマスターピースとしての意味を今も彼の作品は持ち続けています。