某月某日
この不善閑居で思いついたことを書き並べていって、自分がどんなことを考えているかを輪郭から浮かび上がらせようとしたことがあった。2021年1月である。それが途絶えてしまったのは飽きたからではなくて、突如「本芸」の前身である「bookaholic」に私がログインできなくなったからだ。いろいろ調べた結果、bookaholicというドメイン名の使用料が支払われていないためだということが判明した。期限切れである。この管理をしていた人が忙しくなったか面倒臭くなったか嫌になったかでその処理を怠ったのだ。仕方がないので自分で現在のドメインを取り直して新たに「本芸」にリニューアルした、という経緯がある。手伝ってくれた某さん、ありがとう。
せっかくなので、途切れてしまった思い付きメモ群のタイトルを、リンクつきで下に貼っておく。
「杉江松恋不善閑居 大人は誰のことも100%は好きになれない」
「杉江松恋不善閑居 自分にできることだけで食っていこうと考える」
「杉江松恋不善閑居 相対主義という迷惑な寝言をまき散らさない」
「杉江松恋不善閑居 仏の顔は二度まで、で十分な人づきあい。」
で、タイトルに書いたことはこの一件で改めて思ったことだ。信頼、つまり「信じて頼る」ことを信用、「信じて用いる」ことの上位互換のように考えていた時期もあるのだが、考えを改めた。手元にある『新明解国語辞典』では前者を「確かだと思って、それに従うこと」後者を「その人を信じきって、すべてを任せること」とある。端的に言うと、裏切ってもやり直しがきくのが信用で、きかないのが信頼なのだと思う。人格まで含めてすべてを信じるのが後者なので、いったん裏切られたらもう二度と任せてはいけないのである。信用というものは事例集のようなもので、これは頼めるけどこっちは無理というように、一人の相手でも信用していい部分といけない部分が分かれる。遅刻はしてくるけど、仕事をさせるとしっかりしている、みたいなものだ。逆の言い方をするなら、遅刻をしたぐらいでその人の全部を否定するのは浅慮だということだろう。いや、遅刻しないほうがいいけど。人間誰でも欠点はあるということについて考えるのが信用、人間には決して超えてはならない線があるというのが信頼の問題だ。
信用できて信頼もできる人、信用はできるけど信頼してはいけない人、信用できないこともあるけど信頼していい人、信用も信頼もしてはいけない人というように人間関係は大別できるのかもしれない。私はときどき〆切に関しては信用してはいけない人になるので申し訳ない。これは胸の裡に収めて他人に言うことではないが、機会があれば交友関係について考えるべきことだと思う。