某月某日
今抱えている仕事。インタビューの構成×1(イレギュラー1)、レギュラー原稿×2。イレギュラー原稿×1(調整待ち)、ProjectTY書き下ろし。下読み×2。
やらなければならないこと。主催する会の準備×1。
昨日のうちに6千字書きあげるつもりだったのだが、4千字で時間切れとなり今朝になって残りを書いた。新たに4千字ほど書いて2千字削ったのである。どうもこの連載は、1日では書けないらしい。今頃言うなという話だが。2日はかかるということを今後のために憶えておこう。
昨日知ったニュースで最も衝撃を受けたのはとりいかずよし先生が亡くなったという報道であった。膵臓癌で、享年七十五であったそうだ。
数ある漫画家の中で、私が「先生」をつけて呼ぶルールにしているのはとりいかずよし先生と、その師匠である赤塚不二夫先生だけだ。ついにお二人とも亡くなってしまった。永井豪さんは、赤塚先生に「こんな残酷なものをこどもの漫画に書いちゃ駄目じゃないか」と言われ、逆に「赤塚先生がやられないなら俺はこれで売れる」とエロとバイオレンスに活路を見出したという。とりい先生は下半身ネタ、とくに糞尿がふんだんに出てくる『トイレット博士』で一世を風靡した。これは赤塚先生の勧めであったという。本当かどうかはわからないが「とりいは顔が汚いから汚い漫画以外は描くな」と言われたのだとか。そうは言いつつ、とりい先生の描く女の子は実に可愛いのだが。機会があったらバキューム・クィーン、うんこちゃんの絵を見てもらいたい。
その顔でうんこ喰らうかうんこちゃん。
以下は、昨日ツイッターに挙げた文章を元に書く。
『トイレット博士』は、コミックスが全30巻。私は紙の単行本では29巻までしか持っておらず、最終巻が手に入らなかった。どうしても最終回が読みたくて執念で探し、なんとか掲載号の『週刊少年ジャンプ』だけは見つけだした。実家のどこかに眠っているはずだ。現在は電子版ですべて読むことができる。連載期間は、ウィキペディアによれば1970年から77年であったという。1968年生まれの私は、連載ではなくてコミックスで追いかけた口だ。
この作品は序盤がマッドサイエンティストのトイレット博士とライバルのダラビチによる一話完結の連作で、うんこちゃんもそのころの登場人物だ。一朗太という少年が登場したのがやがてレギュラーとなり、彼の中学進学を機に、担任教師であるスナミ先生と、弟分のチン坊、中学でできた仲間の三日月の四人が活躍する学園漫画として生まれ変わった。スナミ先生はそれまで小学校の教師だったのに、一朗太を追いかけて大山中学にやってくるのである。滅茶苦茶でいいなあ。
この作品の主舞台となる大山中学は愛知県にある設定で、明記されていないもののとりい先生の出身である東三河、おそらくは岡崎市付近だろうと思われる。東京以外を舞台にした少年漫画は当時珍しかった。鳥山明デビューまで、愛知県在住で最も有名なジャンプ漫画家だった。
ジャンプの三大スローガンは「友情・努力・勝利」と言われていたが、これを初めて誌面で言いだしたのはとりい先生の『トイレット博士』だ。ただし「友情・努力・団結・勝利」という形で。スナミ先生・一朗太・三日月・チン坊、後にピッピのメタクソ団のスローガンだった。メタクソ団の合言葉は「マタンキ」。この文字を一字ずつ書いたTシャツをユニフォームとして着る。のちに合言葉は「チンコロ/カンコロ」になり、それまで補欠の「ピ」を着ていたピッピを加えて「ホモビアン」が合言葉とTシャツの文句に代わる。
「友情・努力・団結・勝利」スローガンの正確な初出は電子書籍になっている『トイレット博士』を見れば思い出せるのだが今はやらない。メタクソ団はこれを「全裸で」唱えるのが常であった。最も印象深いのはマラソンの会である。メタクソ団にはハゲでワイワイが口癖の校長(奥さんは美人)と腰巾着のクチビルオバケ教頭という敵がいる。これと闘うという話が多く、マラソンの会もその一つだ。マラソン大会で校長は汚い手を使う。それに負けずに奮闘するメタクソ団は、やがて校長を振り切り全裸でスローガンを唱えながら走り去っていくのである。大会の勝利よりも大事なものを目指して。校長はそれを淋しく見送るしかない。
『トイレット博士』はミニシリーズが印象的な漫画でもあった。爆発的な人気を誇った七年ゴロシ(『必殺仕置人』のレントゲン描写に影響を受けている)に始まり、新たな必殺技「地獄ゴーリン」を産みだした忍者篇、スナミちゃんロボ篇、作中作ともいえるミニシリーズで読者の興味を惹きつけた。最も印象的だったのは、スナミと一朗太たちの友情が壊れ、それが復活するまでを描いた一連の話で、残念ながらシリーズ名は不明。最後ボロボロになるまで殴り合って(全裸で)、最後は抱き合って友情復活を喜ぶ(全裸)場面に感動したのを覚えている。ギャグ漫画だが、友情を描いた少年漫画であった。
当時『トイレット博士』といえばメタクソ団のMKバッジで、これはもちろん少年探偵団のBDバッジから影響を受けている。限定生産のバッジが当たる読者プレゼントがあり、これに私も申しこんだが外れた。後に、切り抜いて空き缶に貼る方式の付録がついたことがある。これは読者全員が作ったのではないだろうか。今だったらグッズ制作で編集部が一儲けを企むところだ。そういうマルチ展開をやらなかったのが昭和である。
人情漫画であることや、戦後作品の影響が濃厚なことなど、やはり世代的には一つ前の漫画だった。スナミ先生は戦中派で、ガールフレンドが空襲で殺されるエピソードが描かれたこともある。女の子のパンツに固執している間に相手は死んでしまうという内容で、実に切なかった。こういうところが、コンタロウ『1・2のアッホ』、小林よしのり『東大一直線』などと並ぶとやはり古い。『チャンピオン』の『がきデカ』や『マカロニほうれん荘』、『ジャンプ』の『すすめ!パイレーツ』が出てくれば場所を明けなければならない漫画だった。それらの作品が出てきたとき、本屋の棚がそっくり入れ替わっていったことを子供心に憶えている。同世代の小学生にファンは少なかった。私が小学生中学年になったころ、すでに『トイレット博士』は古い漫画になりつつあった。翌年になれば高橋留美子が『サンデー』に登場するのだから当然だ。同級生で読んでいる者はいなかった。でも私は『トイレット博士』を読み続けた。何がそこまで響いたのかはわからないが、私の心の漫画だ。表紙がとれて青い装丁が見えたジャンプコミックスを実家に大事に取ってある。
私は一生に一度だけ作家にファンレターを書いたことがある。その相手がとりい先生だった。たしか小学一年生か二年生のときである。手紙と一緒にメタクソ団のメンバーが宝船にのっている絵を送った。なぜ宝船なのか。まるでわからない。返事は来なかった。お忙しかっただろうから当然だ。出しっぱなしになったが、それでかまわなかった。私の中でメタクソ団のメンバーは今もあの宝船に乗って航海している。とりい先生と一緒にどこかの海で。さようなら、とりいかずよし先生。今までありがとうございました。