某月某日
今抱えている仕事。レギュラー原稿×2。イレギュラー原稿×1(調整待ち)、ProjectTY書き下ろし。下読み×1。
やらなければならないこと。主催する会の準備×1。
レギュラー原稿を1本書いたけど、1本の〆切が来ているので差し引きゼロ。夕方から某新人賞の二次予選会議で、リモートで行われた。三時間に及んでへとへとになったところで終わる。この新人賞の下読みは一次・二次を同じ人間が読んで会議で通過作品を決めるという方式だったが、次回からは大きく様変わりする。一次と二次で人を分けることになるのだ。ずっと同じ人間が読んで会議が終わったあと編集部と打ち上げをする。そういうやり方でもう二十年近くも続いてきたので若干の寂しさもあるが、打ち上げはなくてもいいしな。一年に一回だけこの会議で顔を合わせる人もいたので、その方達と会わなくなるのだけがちょっと残念。でも人はこうやって孤独になっていくものだ。これでいいのだ。
会議の前に23日までの三省堂書店池袋本店古書まつりへ。持っていない気がする『マンハント』2冊とハリイ・ケメルマン『ラビとの対話』を買う。『ラビとの対話』はユダヤ教に関するエッセイで小説ではないが、ラビ・スモールが出てくるのでこれを買わないと邦訳されているシリーズは全部そろわないのだ。ちなみにダブったので、間もなく開店する神保町PASSAGEの古本棚に置いちゃおう。
そのあとまだ時間が少しだけあった。池袋からどこか一ヶ所だけ寄って帰るか。思案をして、とりあえず西武池袋線に乗る。最初は中村橋の古書クマゴロウに行くつもりだったのだが、江古田で気が変わって、さっと下りた。そうだ、しばらく行っていない百年の二度寝とsnowdropを覗いて帰ろう。
そのsnowdropでびっくりする収穫があった。入って右が漫画と文学の棚、左が実用書や絵本の棚になっている。右側でけっこうな拾いものがあり、レジに向かおうとしたとき、左の棚に差された本のタイトルが目に飛び込んできた。
『名案珍案・笑いの知恵袋! おもしろ福引きアイデア集』立川談プ(有紀書房)。
急いで本を引き抜いて値段を確認すると三桁である。四桁でも買った。
こ、これをください、と急いでレジに持っていくと店主が思わずクスリと笑い、「この本の価値をわかってくださる方がいて嬉しいです」とおっしゃった。わかりますとも、わかりますとも。ずっと探してました。
福引きアイデア集といってもよくわからないと思うが、今のパーティーでビンゴが果たしている役を、かつては福引きが担っていたことがあった。福引きの券に謎かけのようなことが書いてある。たとえば「笹の葉」。これは意味がわからないと思うが「サラ、サラ」でお皿なのである。何々とかけて何と解く、その心は、というのを札でやっていたわけだ。この本はそのアイデア集で、実用本位に賞品別で章が分かれている。学用品・事務用品から大人のおもちゃまで。「三越のバーゲン」が「股開いてます」で「エロ写真」だって。ひどいね。中には「賞品ナシ」なんていうのもある。「簡単な知恵の輪」「すぐにはずれます」だそうだ。
多愛もないがけっこうおもしろい。だが重要なのは内容よりも著者だ。立川談プ。落語協会に立川談志が属していたころの入門者で、かつての直弟子の一人なのである。現在は祭希バンという芸名に改めているはずだ。正式なプロフィールでよくわからなかった部分があったので、この本についている著者紹介がとてもありがたい。
「●立川談プ(たてかわ・だんぷ) 漫談家。昭和20年、大分県津久見市生まれ。40年、東方芸能学校を経て立川談志に入門、立川談プとなる。のち師匠の助言で漫談に転向し、鈴々舎馬風のもとで修業。手品を入れての漫談など、高座からパーティー、各種イベント、ショーまで、その若さとサービス精神の旺盛さで、今モテモテの人である」
手元にある『談志が死んだ 立川流はだれが継ぐ』増補版だと落語協会を立川談志が脱退した1983年での弟子二ツ目以上は、桂文字助(故人)、土橋亭里う馬、立川左談次(故人)、立川談プ、立川談生(現・鈴々舎馬桜)、立川ぜん馬、立川小談志(四代目喜久亭寿楽。故人)、立川談四楼、泉水亭錦魚(現・立川龍志)、英国屋志笑(現・快楽亭ブラック)、立川談之助、立川談幸である。入門順だと上から1964年(1971年移籍)の文字助、1967年入門の里う馬、1968年入門の左談次、1969年入門の談生・小談志、1970年入門の談四楼、1971年入門のぜん馬・錦魚となる。入門と香盤が一致しないのは昇進順が入れ替わっていることがあるからだ。
さあ、そうなると談プはどうなのか。1967年入門と書かれたものがネット上にも上がっているのだが、本人の著書だと1970年である。こちらが正しいのではないか。1970年の談四楼との順番だが、これは談プが先である。実話を元にした立川談四楼の小説「屈折十三年」(『シャレのち曇り』所収)に浅草演芸ホールで談志に入門をお願いする場面があるが、そこに談プが付き人として出てくる。
背を向けた談志が、ガラリ、店の戸を開けた。一瞬、湯気が見えた。真ん中が垂れ加減のノレンは白地に青と赤で、『中華そば、シュウマイ、来集軒』としてあった。
戸が閉まると、談プのやや甲高い声が聞こえた。
「ラーメンふたつゥ」
なので談プが談四楼の兄弟子であることは間違いない。小談志と談四楼の間に入るのではないだろうか。
【追記】
この記事を見た@hirofu1969さんが元談生の鈴々舎馬櫻さんに確認してくださった。
今、馬桜師匠に伺ったら、二つ上の兄弟子だそうです。談十郎、左談次、談プ、ワシントン、オレ、とのこと。
— hirofu1969 (@hirofu1969) February 23, 2022
つまり談十郎=里う馬、左談次、談プ、ワシントン=ブラックということだ。快楽亭の入門は1969年2月だから、1968年4月入門の左談次との間というと、1968年が濃厚ということになる。当時は前座が多くて楽屋に入れない見習の時期があったはずだから、著者あとがきの1970年というのは正式に落語協会に入った年、ということになるのだろうか。
もう一つのわからないのは、談プが談志門下でどこまで昇進したかということである。『談志が死んだ 立川流はだれが継ぐ』には真打として名前が挙げられているのだが、たしか1983年より前に談プは漫談家に転向し、落語協会脱退と共に一門を脱退したはずだ。真打というのはそういう扱いだったということだろうか。よくわからない。
同書の左談次・ブラック・龍志の鼎談ではこのようになっている。
ブラック 最初にやめたのは談プでしょ。
左談次 まあ、あれは噺家じゃねえからな。
龍志 漫談だから。
上の著者プロフィールに書かれている「鈴々舎馬風のもとで修業」というのは脱会後の話なのかどうかが判然としない。本の刊行は1984年だから、少なくともそれまでには辞めて馬風門下になっているわけだ。正式な門下かどうかもちょっとわからない。落語協会に入った形跡がないからである。ちなみに談生と小談志はそれぞれ正式に門下となって馬桜と寿楽になっている。談志門下から馬風門下へ三人も弟子が行ったわけだ。
談プの去就については1985年の『あなたも落語家になれる 『現代落語家論』其ノ二』に談志自ら書いている。少し長くなるが引用する。
九州訛りがひどい立川ダンプも、漫談を目指すように修業させ、これは私の今回の独立と同時に、私のもとを離れて独立した。師弟の縁も切った。この場合私が一方的に辞めてもらったのではなく、いったん決めた師弟の縁を、果して生涯つづけるべきものなのか、という自分自身への疑問もあり、私自身の考えも行動もいろいろと変わってくるものだし、弟子とてもその人間の転機ということもあろう。(中略)この時には、この際独立したいというので、ダンプは自分の希望で、私の元を離れた。彼の希望にそって、私が快諾したのはいうまでもない。(後略)
つまり円満な脱会である。『おもしろ福引きアイデア集』を出した有紀書房は初期談志本の版元だから、もしかすると元弟子に紹介してやったかもしれない。そのくらいの親切は、談志ならしてやるだろう。
とにかくよくわからないことがあるので、叶うものならばご本人にインタビューしてみたいのだが、ボーイズ・バラエティ協会に現在祭希バンの名前はない。ご存命なら今年で77歳になるので、もしかすると引退されているかもしれない。1987年版の日本演芸家連合の会員名簿にはご住所が出ている。意外に拙宅からは近所なのだが、まさか訪ねていくわけにもなあ。
明日は立川流の二ツ目・立川寸志さんが滑稽噺だけで百席を積み上げる落語会「寸志滑稽噺百席 その三十一」です。珍しい「鷺とり」をかけられるそうなので、ご興味ある方はぜひ。
午後8時開演、場所は神楽坂・香音里です。事前ご予約をいただけると助かります。同落語会を題材に寸志さんが落語についてあれこれ語るnote「百席余談」もどうぞ。