某月某日
今抱えている仕事。レギュラー原稿×2。イレギュラー原稿×1(調整待ち)、ProjectTY書き下ろし。下読み×1。
やらなければならないこと。主催する会の準備×1。
仕上がった原稿はなく、一日書き下ろしの作業をしていた。作業というか、これまでに書いた原稿を見ながらうんうん唸っていただけなので成果物はない。つまり何もできていない。たまにはしかたない。これでいいのだ。
午後から妻と散歩に出て、帰路、駒場東大前の河野書店に寄る。ひさしぶり。
昨日から書き下ろし体制に入っていて、日銭原稿も書くものの、机の前に座ったらこの備忘録めいた文章を書いて、それから書き下ろし原稿と午前中は格闘し、午後に仕事読書とその他の原稿に取り組む。そういう流れがいちばんいいような気がすると、前回『浪曲は蘇る』を書き下ろしているときに感じた。先に日銭原稿をやってしまうと、満足してしまって書き下ろしに手がつかないのである。書き下ろしで頭が働いているうちに、午後の浅い時間で他の仕事を片付けるというのが合理的な気がする。これは浅田次郎氏に学んだことで、浅田氏は午前中に原稿を書いてしまって、午後は必ず何か一冊読書をするのだという。そこから勝手に応用させてもらった。
インプットとアウトプットということでいえばよく、アウトプットで忙しくてインプットをしている時間がない、という物言いを耳にする。これは違うのではないかと思う。アウトプットばかりしていて自分の在庫がなくなっていくのが困るということだろうが、逆にインプットをするためにはアウトプットをする必要があるのではないか。自分の中にあるものは、とりあえず在庫一掃して出してしまう。商業原稿にするのがいちばんいいが、そうではないものはメモなりなんなりを作っておいて、とりあえず自分の外に出す。そうすると在庫がなくなる。私の場合、その真空状態がものを引き寄せるような感覚がある。何か入れてくれと内なる声がするので、そういうときに新しいものを与えてみると、自分の脳がよく咀嚼してくれる感じがするのだ。だから何かあったら積極的に出してしまう。
アウトプットをせずにインプットだけしている感じが、なんとなく嫌なのだと思う。いずれアウトプットするから、と自分に言い聞かせているように感じてしまう。どんどん形にしてしまい、なんならインプットしたことも忘れるぐらいでちょうどいいのではないか。
もしかすると、このやり方だと大きなことは成し遂げられないのかもしれない。構想十年、といった大掛かりな仕事のやり方はまた別だという気もする。だが、こちらは基本が日銭ライターである。十年後のことは十年したらまた考えるしかない。出して、仕入れて、また出して仕入れる。その繰り返しで行くべきだろう。やっているうちに澱のように溜まってくるものがある。いくら出しても取り切れないようなものがあって、それがたぶん節目の仕事になる。そういうたちに生まれついたのだと割り切るしかない。
本日は神楽坂香音里で「寸志滑稽噺百席其の三十一」です。滑稽噺だけで百席を積み上げるプロジェクト、本日予告が出ているのは「鷺とり」と「蜀山人」。もう一席はネタおろしで季節の噺とのこと。こうしたご時世ですが、もしよろしければ仕事帰りにどうぞ。午後八時開演、午後九時半には終演という見込みです。