杉江松恋不善閑居 天才浪曲師・鈴木照子のこと

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

某月某日

今抱えている仕事。レギュラー原稿×2。イレギュラー原稿×3(調整待ち、エッセイ、文庫解説)、ProjectTY書き下ろし。下読み×1。

やらなければならないこと。主催する会の準備×1。

レギュラー原稿を1本書いたのだが、週が明けたのでまた1本増えてプラスマイナスゼロ。イレギュラー原稿の〆切が迫ってきた。

昨日はレギュラー原稿のための仕事読書でほとんど終わってしまった。これは、と思ったものに手を出したが自分としては評価できない、という作品ばかりでがっかりする。これは仕方ない。読んだ本を全部書評できるわけではないのだ。時間切れ間近でなんとか当たりを2冊引き当て、1本だけ原稿を書けた。2本書いておきたかったのだが、仕方ない。書き下ろしはちょっとだけ。進捗率41.66%。

仕事の合間に浪曲の番付をひっぱり出してきてつらつら眺める。馴染みのない方も多いと思うが、番付は当時非常に人気のあるファングッズで複数社から発売されていた。日本浪曲学校を主催していた永昌社から出たものも一部持っている。1937(昭和12)年版だ。

日本浪曲学校は南條文若こと三波春夫を輩出したことで知られる、プロ養成学校だ。この番付の裏にはその日本浪曲学校を運営する芸友会の会則が記されている。本部は麹町区九段2丁目17番地に置かれ、朝鮮、北海道、広島に支部があった。地方でも15名以上の会友ができたときは、支部を名乗れるというシステムだったらしい。戦争がなければ、全国組織として発展していたのではないだろうか。

役員を見ると、会長が崔永祥、顧問が頭山満、相談役が東家楽燕で事務主任に山本吉雄とある。崔永祥は名前の表記が崔永昌となっていることもある朝鮮籍の興行師だ。会社が永昌社なのは名前から採ったものか。この人についてはわからないことが多くて、いまだ調査継続中である。永昌社の実態ももう少し調べておきたい。

この番付を引っ張り出してきたのは、鈴木照子について調べていたからである。1932(昭和7)年に7歳で浪曲師として初舞台を踏んだ。国士の大物であった頭山満に可愛がられ、13歳のときには一座を汲んで6ヶ月のハワイ公演を行っている。『東西浪曲大名鑑』を見ると10人を超す弟子がいたとあるが、1937年の番付に早くも鈴木照鶯なる名前が見える。これは弟子だろう。鈴木はありふれた姓だが、偶然で三文字まで一致する芸名はつかない。このとき照子は12歳、今で言えば義務教育の年なのに、もう弟子がいたのである。この番付では照子の肩書は「天才少女」になっている。私の持っているものでは「天才少女」か「横綱」だけで他の肩書がついたものは見たことがない。間を飛ばして即横綱になったわけで、恐ろしい才能だったと思う。体を壊して1950年代以降はほとんど活躍していないのが残念だ。

芝清之編『浪花節 ラジオ・テレビ出演者及び演題一覧』で見ると1950年11月13日にNHKラジオで「瞼の母」を演じたのが名前の見える最後で、それ以降は出演した形跡がない。そのあたりからほぼ隠棲状態になったのではないだろうか。年齢で言えばまだ25歳、早すぎる幕引きである。『東西浪曲大名鑑』に記載されている住所を見ると、三代目廣澤虎造のすぐ近くになっている。これは虎造の妻であり相三味線だった鈴木ふみ子が照子のすぐ上の姉だったからだろう。引退後の日々が穏やかなものであったことを祈る。

番付の写真をもう一枚。これは1949(昭和24)年のものである。照子の位はもちろん横綱。若手のところに鈴木照千代とあるのは、照子よりも3歳年上だがその門下に入って浪曲師を目指した若き日の玉川祐子だ。このころには曲師に転向していたはずだが、浪曲師として記載されている。名前が見つかったのはこれだけなので貴重だ。今度ご本人にも見てもらおう。

浪曲は蘇る:玉川福太郎と伝統話芸の栄枯盛衰

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存