杉江松恋不善閑居 映画クレヨンしんちゃんはエンターテインメントの基本

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某月某日

今抱えている仕事。レギュラー原稿×9。イレギュラー原稿×6(エッセイ、解説、書評×4)、ProjectTY書き下ろし。

やらなければならないこと。主催する会の準備×1。

昼間所用があって木馬亭には行けず。今回は企画公演月だというのにあまり足を運べなかった。来月からまた行かせてもらおう。作業の合間にレギュラー原稿を2本書くが、週が改まって今週の〆切がきたので焼石に水状態である。博麗神社例大祭が終わったらがんばる。

午後になって用事が片付いてから、家にいたこどもと映画『クレヨンしんちゃん もののけニンジャ珍風伝』を観にいく。忍者の里から逃げ出したくノ一が、自分のこどもを守るため、しんのすけと我が子が産科で取り違えられたという口実で居座る出だしで、どうなるかと思っているとすぐにその状況設定から話が動く。取り違えの話題はしばらく埋もれたままになっているのだが、映画の後半で突然言及されるので不意をつかれて涙腺が潤んだ。これが伏線というものだと思う。

映画のクレヨンしんちゃんは、しんのすけがちゃんと五歳の幼児として描かれている限りは外れがない。今回も愚かな振る舞いをしてみせているしんのすけが、家族の待つ家に帰りたいという気持ちを堪えているのだという心理を、鏡像のようなプロットで見せるくだりがあって感心させられた。いよいよ我慢の限界になって、しんのすけが行動を起こす転の場面もいい。しんのすけが走るのはこどもなりのまっすぐな感情の発露だが、今回は父ちゃん母ちゃんの待つ家に帰るという素直な気持ちの表れであり、叫びながら走る意味が十分すぎるほどあった。映画版というと一時期、『嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』ばかりが誉めそやされる傾向があったが、あれはたしかにいい作品ではあるものの、野原一家の物語でなくても成立する部分がある。それに比べると今作でしんのすけが走るのは野原一家の物語だからで、こちらのほうがより本線に近いと思う。映画版は本当に毎年観るべきで、最高水準をずっと維持している。

エンターテインメントの基本が百分に凝縮されているので、ときどき観て成分を補給しなければならない。どこかで時間を作って第一作から順番に観る必要があるかもしれない。

そんなことを書いている間に午前七時になった。例大祭、行ってきます。

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