杉江松恋不善閑居 二代目東家浦太郎さん逝去の報に触れて

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某月某日

今抱えている仕事。レギュラー原稿×9。イレギュラー原稿×6(エッセイ、解説、書評×4)、ProjectTY書き下ろし。

やらなければならないこと。主催する会の準備×1。

新聞報道によれば、五月八日に二代目東家浦太郎さんが亡くなられたという。九日になって、ある筋から浪曲界に深い縁のある男性が亡くなったらしいということを知り、どなただろうと思っていたが、まさか浦太郎さんだとは予想だにしていなかった。ご病気であることは知っていたが、それほどお悪いようには見えていなかったからだ。八日は例大祭があったため行けなかったが、末の弟子の東家恭太郎さんが天中軒景友さんと共に国立演芸場にて年季明け記念の公演を行っていたはずである。恭太郎さんが年季明け披露を行ったのは昨年十一月二十三日の木馬亭で、このとき浦太郎さんが飛び入り的に舞台に上がられた。飛び入りであったので内容は書かずにおくが、その声量の素晴らしさは当日出演した中でもやはり群を抜いており、よいものを聴いた、と感じ入った。あれがおそらく公に登場した最後の機会だったと思う。恭太郎さんはいい親孝行をされた。

東家浦太郎さんについての追悼は、また別の然るべき方が書かれるだろう。私が差し出がましいことはできないので、ただ自分が接したわずかな体験を書いておく。拙著『浪曲が蘇る』を著した際、最初は浦太郎さんに取材することは諦めていた。ご病気で休養されていると知っていたためで、図々しくお話を聞きにはいけないと思っていたのだ。すると、取材をお願いした東家一太郎さんが、いや、師匠は受けてくださると思いますよ、とおっしゃる。その言葉に勇気づけられ、仲介をお願いして実現の運びとなった。

取材場所は、浦太郎さんのお住いになっていた松戸市の某貸会議室である。一太郎さんが運転する車で来られた浦太郎さんは、非常に物腰の柔らかい方で、また謙虚でもあった。自分の若い頃に言及される際には、売れてなくて仕事がなかったから、と苦笑しながらお話しになられた。ヤング浪曲で一世を風靡したことについて伺うと、テーブルを外してスタンドマイクだけでこうやってやったんです、と身振りで舞台姿を再現してくださった。古豪の芸談という感じではなくて淡々とお話しになられるのだが、いざ節の話にさしかかると、それはこうで、こういう節で、と実際に唸ってみせてくださった。そこだけスイッチがパチリと入る感じである。ああ、節がお好きなのだろうな、と感じ入った。師匠東家楽浦譲りの関東節であったが、浦太郎節はバラシなど聴かせどころに関西節を取り入れていた。つまり、節尻を落としたマイナーなアテ節を売り物にするだけではなく、メジャーの、広がりのあるメロディアスな節を聴かせるという形だ。その工夫についてお聞きしたところ、節に関東も関西もない、たとえば梅鶯節みたいに、独自の節で一家を成した演者だけが、何々節と呼ばれればいいんじゃないかと思います、とおっしゃったのが印象的で、それは『浪曲は蘇る』にも書いた。

結果としては最晩年になってしまった二〇二一年に、取材の機会を持てたことは大いなる喜びであり、演芸ファンとしてささやかながらも務めを果たせた思いである。一太郎さんの申し出に図々しく乗っておいてよかった。やはり芸談は残しておくべきだ。チャーミングなお人柄で、できればまた別の機会にも改めてお話を伺いたいと思ったが、それは果たせずに終わった。浦太郎さんにお話を伺ったあの一時間半の音源は、大事な宝としてずっと保存しておくつもりである。

浦太郎さんは松戸のお隣、金町にある葬儀社・島村会館で二十年以上にわたって独演会を開かれた。ひとところでの継続した浪曲独演会としては、この先も抜かれることのない偉業ではないかと思う。多くの同業者がゲストとして呼ばれ、浪曲界にとっては貴重な実践の場となっていた。気負わず、しかしそうした形で恩恵をもたらした姿勢が実に浦太郎さんらしいと思う。独演会が実現したのは、亡くなられた島村会館の社長に可愛がられたからだという。長く信頼される関係を築けたのも、やはり浦太郎さんのお人柄ゆえのことであろう。

取材日のあと、松戸から一駅常磐線に乗って金町で下りた。島村会館を一目見ておきたかったからである。近親者のみと発表された葬儀もここで行われたのだろうか。今はただ、感謝の思いだけを表明しておきたい。ありがとうございました。

二代目東家浦太郎が本拠地としていた島村会館

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