杉江松恋不善閑居 玉川奈々福の目からウロコの浪曲講座第5回

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某月某日

今抱えている仕事。レギュラー原稿×5。イレギュラー原稿×2(エッセイ、解説×1)。

ProjectMTの準備。

やらなければならないこと。主催する会の準備×1。

朝からぎりぎりまで仕事読書。夕方になって一本レギュラー原稿を書いた。まだまだ先は見えないがなんとかなりそうな気はしてきた。大物が残っているんだけど。

夜は高田馬場ばばん場にて「玉川奈々福の目からウロコの浪曲講座」である。第五回なので、残すところもあと一回になった。今回は浪曲と隣接する語り物芸の関係について、差異を複数の視点から比較する内容だった。『語り芸パースペクティブ』で着想したことを煮詰めたような部分もあり、発見多数である。特におもしろかったのは、落語は「はなす」だから現在その場で起きていることについての言及、浪曲は「かたる」芸だから過去を視野においているが、講談は「よむ」なので時間の流れの外にいる話者がテキストを伝えるものである、という区別の話だった。そこに「うなる」という音声の軋み、情報量が限りなくゼロに近い感情成分だけの音が加わることのおもしろさが浪曲にはある。他ジャンルにおいてこの「うなる」に相当するものが何かを考える浪曲論をもっと読んでみたい気がする。何かないかしら。

他芸と比べて浪曲が違うな、と思うことはたびたびある。たとえば、浪曲の会場では観客がうろうろしている。後から入ってきて席を探している客、小用などで途中席を立つ客が割と多いのである。これを落語の会場でやると間違いなく顰蹙を買う。もちろん浪曲の席でだってやらないに越したことはないのだが、口演への影響は他芸と比べて比較的少ないのである。携帯電話の音なども同様で、たとえば「芝浜」のクライマックスで着信音が流れてしまったときの会場の雰囲気は想像するだけで恐ろしいものがあるが、浪曲の場合はかなりなんとかなってしまう気がする。もちろん携帯電話の音はしないようにしてください、という話だが、そのくらいでは揺るがないぐらいのふてぶてしさが浪曲にはあるのだ。大音の芸ということもあるだろうが、他にも何か理由はありそうだ。そういう豪胆なところが浪曲ファンは好きなわけである。

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