某月某日
今抱えている仕事。レギュラー原稿×7。イレギュラー原稿×3(解説×3)。
やらなければならないこと。下読み×1。の・ようなものの準備×1。
言わずもがな、ということを書く。
杉江松恋という名前は雅号であり、一般商店や企業における屋号である。つまり仕事をする上で大事にしているものなので、ご配慮いただきたい。
と言いつつ補足するが、名前を間違えられること自体はなんとも思わない。よくある間違いが「松江松恋」という表記で、編集者から来る手紙やメール宛先にそう書かれていることも多い。別に構わないのである。「杉江松恋」という字面だけが認識されていればいい。「浅田飴」を「浅口飴」、「龍角散」を「龍魚散」と書いてもどの商品かはだいたいわかるだろう。
よくいただく質問に「松恋」は「マツコイ」なのか「マッコイ」か、というものがあるが、これもどちらでもいい。親しい人は後者で呼ぶことが多いが、初対面の人にそう言われても気にならない。これも「スギエマツコイ」という読みがだいたい合ってればいいのである。「フミエマツコイ」でも「スギエハツコイ」でも問題はない。
ちょっと困るな、と思うことが最近二つあった。一つはちょっとどころではなくて困る。故意にやったのであれば、絶対不可な案件である。
軽いほうから書くと、とある面識のない編集者からの手紙であった。ある作家の新刊を送ってくださり、ぜひお読みいただきたいと手書きの書面が添えてある。熱意の籠ったことでありがたいが、その宛名がまずかった。書き出しが杉江松恋ではなく、私の本名になっていたのである。私は本名を仕事と完全に切り分けている。ただ、出版社との事務手続きで必要なこともあるので、知らせてある場合もある。経理処理などの手紙は本名で来ることもある。おそらくこの編集氏は、そうしたリストをご覧になってうっかり筆名ではなく本名のほうを宛先に書いてしまったのだろう。記憶がなくて申し訳ないが、面識のない方のはずである。これはちょっと失礼なことだ。
雅号・屋号を定めているというのは、本名や他の名前ではなくてそれで仕事をしていくという意志表示である。その前提を無視すべきではないし、私も駆けだしのころ旧知の人物について書くのに筆名ではなくて本名をうっかり出してしまい、叱られたことがある。看板は大事なものなのだから、無視してはいけない。
この例は故意ではないのだろうから、件の編集氏に連絡を取ることもしなかった。だが、次の件はちょっと看過できず、担当者に苦情を申し伝えたのである。
某所に新刊『100歳で現役! 女性曲師の波瀾万丈人生』(光文社)関連の文章が掲載された。それはたいへんありがたいので感謝しつつ拝見したが、読んで失望したことのである。本の著者名が記されていなかった。具体的に言えば本の主役である玉川祐子さんのお名前だけを記して「書き手・杉江松恋」の表記を省いていたのだ。
これは不可である。
書名・著者名・版元名は本を紹介する際は必須の情報なので、その意味でまず論外だ。個人的にこれをやられては困るという理由もある。昨日SNSに書いたので繰り返すのは気が引けるが、改めて言っておく。
仕事柄芸人本をよく読むが、そうしたものの多くは著者が自分で書いておらず、プロのライターが関わっている。昔は名前を出さず、文字通りのゴーストに徹していたが、最近は「構成」という名目でクレジットされるようになった。「執筆協力」という場合も多い。
私はこれをやらないのである。表紙及び奥付に名前が明記される形の共著しか手掛けない。『100歳で現役! 女性曲師の波瀾万丈人生』がそういうゴースト仕事だと勘違いされるような記述は困るのだ。件の記事を見ると、玉川祐子さんのお名前だけがあって書き手のそれがない。あまり詳しくない人だったら、書き手が存在するということには気が付かないのではないか。そうした先入観があると、本を手にしたときに書き手をゴースト的な立場だと勘違いするかもしれない。それは営業妨害である。
いくつか芸人との共著を出しているので、私にもそうした企画が持ち込まれることがある。その際にゴーストを頼まれると「名前の出る共著で、印税は対等である」という条件しか引き受けないと答えることにしている。たとえばそれで「名前を出さない代わりに印税はすべて差し上げる」と言われても引き受けないだろうと思う。百万部売れそうなら心は揺らぐかもしれないが、そういう本は今時ないはずである。
過去にも、芸人以外からゴーストを頼まれたことはあったが、すべて断った。中には高級料亭で一杯やりながらご相談しませんか、とバブル期のようなことを言いながら誘われたものもある。断った。仕事の話を飲み食いしながらするのがまず嫌いである。
なぜゴースト、名前の出ない仕事をやらないのかと言えば答えは簡単で、杉江松恋という名前でやる仕事を大事にしたいからだ。仕事の時間はすべてそれに宛てたい。杉江松恋仕事で自分の時間はもう一杯なのである。この名前をもって何かをするというのが、私が取り組まなければならない務めで、他のことをしている余裕はない。同人活動も商業の原稿もすべて同じ名前で行っているのは、これが理由だ。そういうことすべて杉江松恋。
ゴーストに類する仕事は以前に一度だけやったことがあって、これは某文庫解説であった。ある芸能人の語りを、その人が書いた体にまとめて文章化する。分量が少ないのと、担当編集者とのつきあいが古かったので、その人の顔に免じて引き受けることにした。送られてきた見本には構成とも執筆協力ともクレジットされていなかったので、報酬だけ受け取って忘れることにした。よく考えたら、自分で解説を書いたときよりも手間はかかっているのに報酬額は少ないのである。以降その編集者から同様の依頼が来ても受けないつもりでいたが、幸い頼まれることはなかった。これでゴースト仕事は絶対にやらないことに決めた。
こうして書くと、ずいぶん杉江松恋という名前に愛着を持っているように思われるかもしれないが、最初に述べたようにこれは名前を示す単なる記号なので、表記を間違えられてもまったく意に介さないのである。ただ屋号なんだから書かないのは不可ということだ。某媒体には『100歳で現役!』の担当編集者を通じて抗議の意を伝えてもらったが、どうなることやら。今の段階ではまだ、直接の連絡はない。たぶん来ないだろうが、それは仕方ない。
こういう形で自分の名前を出してもらえずに悔しい思いをするということは、私よりも筆歴の浅い書き手にはもっと多いだろう。抗議したくても、版元や編集者との力関係を考えて黙ってしまう、あるいはしても黙殺される、ということはあるのではないかと推察する。件の媒体が同じことを繰り返さないように、嫌われるのを承知で今回は書いた次第である。以降、記名で仕事をしているライターの誇りを傷つけないように気を付けていただければ幸いだ。私はもういいので、同様のことがあった際に、ライターがいろいろ文句を言ってきたことがあったっけ、と思い出してもらいたい。なんかマツエとかスギナミとか、と名前は朧気で構わない。
昨日はぎりぎりまで仕事をして木馬亭。残念ながら講談からしか聴けなかった。先月お休みされた三門柳さんが元気に舞台を勤められたので一安心である。