某月某日(デッドラインまであと14日)
10月末までの〆切:レギュラー隔週×2、レギュラー週刊×1、イレギュラー×1、文庫解説×1。
11月末までの〆切:レギュラー月刊4、レギュラー隔週×2、レギュラー週刊×5、レギュラー新聞×1、イレギュラー×2、インタビュー構成×1、文庫解説×2
11月末までの予定:講義×3、取材×2、理事会×1
演芸関連: 開催する演芸会×4、行く予定の演芸会×3
動画収録予定: 6本
書き下ろし: ProjectTS。
午前中は仕事をして朝一で原稿を終わらせ、午後は仲入り後から浪曲木馬亭定席公演、夜は乱歩賞と日本推理作家協会賞の贈賞式があり池袋へ。報告事項があるため私も登壇した。
これだけでけっこう疲れたのだが、贈賞式のあとで非常に嫌なことがあり、どっと疲れる。すでに関係者から詫びが入っているため詳しくは書かないが、ひさびさに書評家という仕事を貶められるような出来事だった。
どんな仕事をする人もそうだと思うが、私も書評という専門分野には誇りを持ってやっている。それを貶めるのは、してはいけないことである。昨日の場合悪意がないことは明らかだったのだが、それだけに「書評家なんてその程度のものでしょう」という潜在的な差別意識を感じてしまい、憤った。これは許してはいけないことである。書評家だけではなく「○○なんて」の部分にどんな職業を入れても同じだろう。
書評家という仕事は独立して存在するものであって、何かの付属品ではない。以前に某所で編集者と食事を一緒にしたとき、先方はたぶん自分が払うつもりだったのだろう、「杉江さんも、もう少し飲んでいいですよ」というようなことを口走った。あのときに代金を叩きつけて帰らなかったことを今でも私は後悔している。取材先が遠方で、まだ取材旅行の途中であり、仲間割れするわけにはいかなかったという事情もあるのだが、今ならその場で帰っていると思う。「てめえに飼われているわけじゃない。心得違いをするな」ぐらいのことは言ったと思う。誰に対しても同じで、はした金で魂を売る気はないし、どんなに偉い人間が来ても靴を舐めるような真似はしない。それで食えなくなったらそれまでなのだ。
というようなことが昨日はあったと思っていただきたい。よっぽど憤懣が溜まっていたものと見えて、今日は一日調子が悪かった。明日から頑張る。
博霊神社秋季例大祭に持っていく〈腋巫女愛〉の〈博麗霊夢の日々〉シリーズ既刊。第十作『博麗霊夢いただきます』。赤蛮奇の首を持って歩いている霊夢、という表紙だけまず思いついてくまさんに発注し、あとのことは全部絵が出来てから考えた。これも変な話で非常に気に入っている。このシリーズはタイトルに意味があるものと、そうでもないものがある。これは最後の一行で意味がわかるようになっていて、そういう点も好きだ。