二ヶ月に一度の前橋詣で。拙宅からだと高崎線で終点まで行って、両毛線に乗り換えるというのがいちばん早い。難は両毛線の本数が少ないことで、毎回高崎線が遅れ、乗り継ぎができるかどうかでやきもきさせられる。これ以外に東武線で桐生まで行き、そこから上毛電鉄で西へ向かうという行き方もあるのだが、これはまだ試したことがない。
前橋市内にて取材である。1時間ほど話して、3時間以上懇談という親戚の家に招かれたような取材だった。前橋駅から取材先まで歩ける距離ではある。だが今回歩いてみたら、あっというまに汗みずくになってしまった。前橋の夏は恐ろしい。次回は7月か8月に伺うだろうから、ゆめゆめ歩いてはなるまい。バスに乗ろう。
思ったよりも遅くまでお邪魔してしまったので、まっすぐ帰宅。すぐ床に就いた。
帰っている途中でSNSを見たら、とある男性らしいアカウントが「私は女が許せないのではなくてフェミニズムが許せないのだ」という主旨のことを書いていた。「フェミニズムが許せない」という物言いは自分にとって意外すぎるものなので、結構びっくりしたのである。そういう考え方もあるのか、と思った。
フェミニズムとは、人権思想と同じで、こんにちでは常識そのものだと私は思っている。自分の立っているところに傾斜があったら気持ち悪い。右に傾いていても左でも、とにかくまともに立っていられなくなる。だからそれを是正する必要があるのである。誰が得をするということではない。強いて言えば、まっすぐ立っていられる社会の全員が得をする。そういう意味でフェミニズムは、建築のときに使われる水平器のようなものだ。
今の世の中は男性への逆差別が行われている、と言う人もいる。上の、フェミニズムが許せない方はそう思っているのだろう。フェミニストの発言によって性的な表現が公開の取りやめをやむなくされるなど、一定の圧力がかかることもある。もしかすると、そのことが許せないのかもしれない。私はゾーニングの徹底が好ましいと思う者なので、その表現が受容できないと感じる人の目に触れる場所には置くべきではないと考えている。その範囲での問題提起はやはり正当なものだと思う。受容できない人とそれを欲する人は立場としてまったく同じなので、どちらかの権利がそれで阻害されるのは好ましくない。「見ない権利」というものもあるのである。いずれにせよ、そうした表現について考えるときも根底には水平ではない社会のありようがあって、傾きによってどちらかの判断に歪みが生じている可能性について、一歩下がったところで考える必要がある。浪曲の「陸奥間違い」で将軍家継が「貧なるは辛いかのう」と不思議がる場面があるが、持てる者である将軍様には明日の米にも困る庶民の苦しみは体感できないのである。これが歪みだ。
もちろん水平器は置き方、読み取り方を間違えれば、実際と違う結果を出すことになる。逆差別が起きる可能性も常にある。それ自体を正す、つまり水平器が自らの誤りを修正するか、もしくは別の水平器によってそれが行われなければならない場面もあるだろうと思う。水平に保つことが大事なのであって、どちらか一方にのみ利益を与える目的であってはならない。ただそれだけのこと。