杉江松恋不善閑居 コスパ、コスパとそんなに得がしたいのか

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某月某日

目が覚めたら午前5時前。前夜は8時に就寝しているのだから当然だ。9時間もよく寝た。そのままホテルの風呂巡りをする。雨がぱらついているが、年配客で露天風呂は賑わっていた。こんな時間からご苦労なことである。

名前は挙げない。ここは低価格でチェーン展開しているホテルで、各地の温泉郷で潰れたところを買い取っては傘下に入れるというやり方で店舗が増えた。客は日本人の高齢者が多いように思う。あまり外国人客は見なかった。円安の時代だから、高価格帯のところに外国人客は泊まり、安いホテルを日本人は探す、という構造が出来ているのだろうか。国内で高級なホテルに泊まろうと思ったことがあまりないので自分自身には関係ないのだが。

朝食後、みなさんとお別れして一人熱海駅へ向かう。実は鍵を家に置いてきてしまい、家族が外出する前にどうしても帰宅しなければならなかったのである。横浜駅でシウマイ弁当を買って帰り、それで昼食にした。午後はずっと仕事読書をしていた。夜になって近くの、安心と信頼のTでこどもと夕食。店員さんに、もうビールを飲めるんだ、とこどもが驚かれていた。小学生のときから一緒に行っているから顔なじみなのである。近所はよそから来る客をぼることばかり考えている店ばかりになってしまい、外食はここと、数えるほどしか行かなくなった。

コスパ、という言葉を聞くたびに、元コスト部門にいた人間としては肩身の狭い思いをする。コストを下げなければ利益が出ないのは当たり前のことだ。しかし支払わなければならないものというのも存在するのである。今の経済地盤沈下は、企業が国内でのコストを下げることのみに汲々とした結果、魅力を失って国外の競争相手に負けた結果ではないか。円安にすれば国際競争力が上がる、というのは大事なところから目を背けた考えに見えてならない。

これは経済的な話とは別だが、社会的責任というものがある。ある要素は、自分にとってコスト要因かもしれない。それを切り離せば利益は増えるだろう。しかし、何か、誰かを切り捨てることにつながるかもしれない。現状維持という言葉は悪者扱いされがちだが、今あるものを守ることが大事な場合もあるのだ。コスパの美名で切り捨てられるものを、踏みとどまって考える義務を有する者もいる。いい年になってしまったので、私もそうだろう。この年になって効率ばかり考えるのは、本来恥ずかしいことなのだ。自分を支えてくれたものに無自覚だと白状しているわけなのだから。

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