鬼怒川にて目覚める。朝食は定番の湯葉かと思ったが違った。大きな鮭のかま焼きがメインで、これはこれで美味しい。宿を出て河畔を少し歩いてからチェックアウトする。
鬼怒川駅は7年前からSL大樹号の発着駅になっており、転車台が移設されている。ちょうど大樹がそれに乗って方向転換するというので、柵にしがみついて録画した。著作権上で問題がなければ、YouTubeで公開するかもしれない。そこから川まで歩き、楯岩大吊橋を渡る。鉄骨の構造なので頑丈なのだが、揺れるのでやはり怖い。往復して駅に戻り、今度はちゃんと買えた特急券で北千住を目指し、帰った。
冒頭の写真はホテル三日月である。現・テレビ東京が東京12チャンネルと呼ばれていた時代からCMを頻繁に流していた。国際プロレス中継のスポンサーでもあって、番組を存続してもらうために東京12チャンネルは社員旅行でホテル三日月を使うなど、涙ぐましい努力をしていたらしい。これも昭和のプロレス遺産と言えるだろう。いつか泊まってみたいものである。
ひと昔前の鬼怒川は、バブル経済の影響で倒産が相次ぎ、廃墟化したホテルが林立していたというが、そういう負の遺産はあまり目立たなかった。おおるりや伊藤園といったグループが廃業したホテルを買い取って安価なツアー向けに改修したのも功を奏しているのではないかと思う。一時は火の消えたようになっていた熱海も復活したし、鬼怒川にもぜひ繁栄してもらいたい。なんといっても都内から来やすい温泉地なのが嬉しい。また来ようと思う。
帰路の車中で水道橋博士『本業2024』(青志社)を読み終えた。これは以前ロッキンオンから出ていた『本業』に新稿を追加し、ほぼ倍の厚さで出し直した本である。ちょうど自分が『芸人本書く派列伝』を上梓することもあり、彼我の違いも意識しながら目を通した。
まえがきにタレント本とは「膨大で払いきれない有名税に対する青色申告書」であり、自ら世間から清算して欲しい、自分への価値そのものなのだ、という記述がある。つまり公人としての存在が第一義になっている人が、それによって制限される自我を改めて公表することに意味があるという定義だろう。
『本業2024』と『芸人本書く派列伝』第一の違いは、タレント全般ではなく芸人と定義すべき書き手の本のみに取り上げる対象を制限したことである。その人が自分を芸人と見なしているかどうかが選書の際には重視したことで、そこからさまざまな角度で芸人という概念に光を当てている。『本業2024』で中心になっているのは「タレント」もしくは「スター」という概念だろう。常に注目される存在である「スター」は、常人が体験しえないような人生、日常を送ることになる。その特異性を、敬意を払いながら『本業2024』は書いている。テキスト以外の部分、芸人・水道橋博士の見聞が記述に加わっているのは、タレント本著者の記述を補強する意図であろう。テキスト以外は極力排除するように努めた『芸人本書く派列伝』とはその点も異なる。
最も大きな違いは「スター」に対する尊崇の大きさ、憧れの有無である。『本業2024』の水道橋博士は、対象へのそれを隠さない。梶原一騎の著作になぞらえて「男の星座」を描くことが動機であると語っていることからもその点は明確だ。星座の中心には尊敬してやまないビートたけしがあり、執筆者としての原体験である竹中労のルポルタージュがある。
私の『芸人本書く派列伝』も最初はそうした対象があった。喜劇論における小林信彦であり、落語論における立川談志である。連載時にはこの二者への影響が極めて強く感じられる原稿を書いていたのだが、今回の単行本化において、その色はやや薄まっているはずである。中心を設けず、複数の角度から芸人のありよう、自我の裡を見るということが主題化したからだ。連載後期から対象となる芸人本が多様化したのは、改めて見直すとそうしたことが理由だったのだろうと改めて気づかされた。
『本業2024』は発見の多い本で、読んでいるとあちこちに付箋を貼りたくなる。元版を読んだときは、連想ゲームのように言葉を連ねて著書及び著者のイメージを作り出す技巧に感心させられた記憶がある。今回再読してそれがまざまざと蘇ってきた。それとは別に旧稿で最も関心したのは近田春夫『考えるヒット』を取り上げた回である。同書の中で近田は自らを小林秀雄と重ね合わせるという、未読の人間には無茶としか思えないことをしているのだが、水道橋博士はその暴論に乗っかった上で近田の意図を読み取り、重ね合わせを正当化する根拠があることを丁寧に解説していく。その背景には周辺書を読んだ知識の蓄積もあるはずで、テキストに書かれたことを尊重し、それのみを評価軸にするという原点に帰ったような書評だった。
新稿では春日太一『あかんやつら』文庫解説に感心した。これは春日太一が好きで、著書をすべて読んでいなければ書けない原稿である。ここでの水道橋博士は言葉で文章を覆うことを選ばず、イメージの外装ではなく、本を成立させている骨格を描写することで作品に備わった強度を示している。盛りだくさんの要素がある本なのに見事に絞り込まれていて、がちゃついたところがない。理想的な書評であると思う。
一方で弱点もあり、小説を扱うとテキストにそのまま入っていくのではなく、周辺事実や自身の体験に話を逸らしがちである。これは自ら書いているように、物語を生きているとしても過言ではない芸能界に身を置いているために、小説読書からは遠くなっていることが原因だろう。たとえば又吉直喜『火花』の書評では、作中で描かれる芸人と似た境遇であった、〆さばヒカル(故人)の月旦が語られる。芸人としての信条が世情と合わないために不遇をかこったという意味では『火花』の登場人物と重なる部分が多く、この文章を読んで作品に関心を持つ人もいるだろう。つまり書評としては成立しているので問題はないのだが、小説を扱った文章としては、私は不満を感じる。なぜならば小説は、何が語られているかというストーリーだけではなく、それをどう語るか、という表現が重視されるものだからだ。
物語偏重というと言葉はきつくなってしまうか。しかし、物語だけに目を向けていると、見えなくなってしまうものもあるだろうと私は思うのである。物語の中には他の物語を上書きすることで成立するものもある。そのことを意識するとき、それをどのように語るかは無視できない要素であろう。小説を物語が世界化されたものとして読むことと、世界を一つの物語として読むことの間には大きな違いがある。世界は単一の物語では読み取れないし、そうしてはいけないのだ、という戒めが私の中にはある。
『本業2024』の続篇として、本に関するもの以外の文章を集めた『文業2024』が同じ出版社から予定されているらしい。こちらも楽しみである。先に書いたように、『本業2024』は示唆を受ける本だ。それがすべて同意ではなく、違和感を覚えたり、反対意見を表明したくなるというのは、考える余地を読者に残しているということで、いい本の証しでもある。広くお薦めしたい。