家に籠って奥泉光と取り組んだ一日であった。
特に書くこともないので近刊について今一度。
新刊『芸人本書く派列伝』は原書房刊で、8月23日書店搬入、早いところではその週末から、遅くても来週には販売が始まるのではないかと思う。
これは〈水道橋博士のメルマ旬報〉に創刊から休刊まで、約10年にわたって連載した芸人本書評をまとめた一冊である。連載時にはテレビタレントになった人や、プロレスラーの本も取り上げていた。時事性の強い原稿などもあったので、そういったものは除き、芸人が書いたと言える本に純化した内容になっている。
連載は100回以上続いたので、原稿は膨大な分量になった。すべてを収録したいのはやまやまだったがそうもいかない。編集者と相談して上のような選抜を行ったのだが、初校を作った時点で問題が発覚した。私も編集者もページ計算を間違えていたのである。なんでそうなった。仕方がないのでそれをさらに削った。800ページ近くあったものを半分にした。そのため、泣く泣く落とさざるをえなかった原稿もある。たとえば落語関連は、立川流の記事が多かったので半分は削った。バランスを考えるとこれは仕方ない。芸人が執筆者ではなく、その評伝も入っていたのだが、これも落とした。唯一の例外は澤田隆治の遺著である。ルーキー新一について書かれた本は、その前にレツゴー正児の著書を入れたので、どうしても落とせなかった。その他にも愛着のある回のものがたくさんあったが、えいや、でみんな落とした。残った原稿は自分でもおもしろいと思うものばかりのはずである。
〈水道橋博士のメルマ旬報〉連載は最初、博士が本を指定する形だった。これが変更になり、題名も最初の〈マツコイ・デラックス〉から現行の〈芸人本書く派列伝〉に改まった。このへんの経緯は詳しく書くと、書評とはなんぞや、書評家の矜恃とはどういったものか、という論につながっていき、載せたいところだったのだがすべて削った。原稿のはしばしに自分が書評を手がけることについての考えが表れている。この稼業を30年間やってきたが、実はこれが初めての純粋な書評集である。
〈メルマ旬報〉が終了し、某社に話を持ち込んだのだが、うちでは無理です、と断られてしまった。それで自信を喪失し、一般の商業出版は無理ではなかろうか、と思うようになってしばらく単行本化は諦めていた。
時が経ち、懲りない性分なもので営業熱に火がついてきた。断られても他に行って、日本の商業出版を手掛けている会社すべてが駄目だと言ったらそこで諦めればいいのである。いくつか持ち込みをする準備をしている中で、ふと思い出した。自分の単著で最も近いのは『浪曲は蘇る』(原書房)である。これ、原書房に持って行かないと義理を欠くのではないだろうか。そう気が付いて、同書の担当だったYさんに連絡をしてみた。企画を話すと、原稿を読んでもいいとおっしゃる。ほぼ全連載分が入ったファイルを送ったところ、企画を通せないか試してみるから少し時間が欲しいと言われた。待った。
どのくらい待ったか記憶が定かではないのだが、半年ぐらいだったような気がする。これは無理だったのかな、手間を取らせて悪いことをしたな、と考え始めていたところに連絡が来て、企画が通った、本にします、というメールが届いた。
ありがたい、と思うより前に、何かの間違いでは、と思った。そのくらい諦めていた、ということである。
これもすべてYさんの手腕であろう。出来ないと思っていたときに子供を授かったような喜びがある。ありがとうございます。これで一つ、営業行脚の旅をしないで済みました。
著書のあとがきに編集者への謝辞を書くことを私は好まない。裏方への思いは公の場ではなくて直接当人に言うことだと思うからである。連載を担当してくれた〈メルマ旬報〉編集の原カント君に対してはあとがきの中で触れたのだが、あえてYさんのことは書かなかった。ここは自分の媒体なので、改めてお礼を申し上げたいと思う。お世話になりました。
Yさんとは某社編集部で契約社員のような形で働き始めてからのつきあいで、もう何年もお世話になっている。取材のアテンドも覚束ないような若者だったのが、すっかり立派な編集者に成長した。頼もしい限りである。原書房はYさんを大事にしてください。
しかし困った。何が困ったって、実はYさんは次の私の企画を本にしてくれる予定だったからである。予定だったって、原書房には一切話をしていないのだから、これは私の勝手だ。そっちはYさんならきっと興味を示してくれるだろうと思って、少しずつ小出しに話をしている。その企画が通る前に『芸人本書く派列伝』が本になってしまった。こうなれば仕方ない。Yさんはもう一冊私の企画を本にしてくれなければならない。もうちょっとだけお付き合いください。