杉江松恋不善閑居 席亭の称号にどんな意味があるのか

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

某月某日

朝起きてまずメールボックスを開き、9月8日の〈スギエゴノミ〉、9月28・29日の松浦四郎若独演会、来年1月19日の東西浪曲会の予約申し込みがないかを確認する、というのが日課である。四郎若は公演まで一月を切ったので、知り合いで興味を持たれそうな方にチラシを見ていただくということをしようかと思っている。ダイレクトメールが届いた方は、どうぞよろしくお願いします(うちにも送って、というお申し出はありがたくいただきます)。

木馬亭の公演はありがたいことに、ボランティアで手伝おうという方も現れている。どのみち一人では回しきれないので誰かにはお願いしないといけないわけで、誠にありがたいことである。浪曲を賑やかにしたい、という熱意だけでこの会は運営する。持ち出しにならなければそれでよし。興行会社ではないので、儲けなければいけないということはないのである。といってタニマチのようにお金を使うというわけにもいかない。ほどよいところで行きたい。

専門の興行主ではない人の演芸会開催はそうあるべきだと思う。自分がなるべく損をしない範囲でがんばって、労力でなんとかできるところは人数で補って、余計なお金をかけない。今回『東京かわら版』に広告を打ったのは、松浦四郎若の東都お目見えに恥をかかせないようにしたいという気持ちであり、お金の掛け方としては間違っていなかったと思う。収支をとんとんにするためには広告費は厳しい出費になるのだが、これは私の満足のためということで会の出納とは別会計にするかもしれない。

会をやって後悔しなければそれでいいのだと思う。もちろん、素晴らしい芸を間近で触れられるというのが最大の報酬である。それ以上のことはない。会の運営で嫌なことがあったとしても、それを帳消しにしてくれる芸を発揮してくださればいいのである。気持ちよく芸をできる環境を整え、それに芸人が応えてくださるのを待つしかない。

席亭という肩書に私がこだわらないのはそこで、しろうとにその言葉は意味があるかと思うのである。席亭、とおだてられることに意義がある、というなら別に否定はしない。でも言うだけならただだからな。芸の場を準備できた、という喜びとそれを秤にかけたら、どう考えても前者のほうが重い。

継続的に会を催すことでその気持ちが薄れていくとしたら、その慣れは恐ろしいことだと思う。毎回毎回芸人に来てもらえてありがたい、という気持ちをしろうとは失うべきではないのではないか。いろいろなトラブルの例も聞いている。そのへんに遠因があるのではないかと私は思っている。

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存