杉江松恋不善閑居 教養主義は常に正しいが、他人を攻撃するための免状ではない

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某月某日

昨日は朝一で原稿を一本終わらせたのであった。夕方に用事があったが、電話を一本かけるだけのことなのでどこにも出かけずに昼間は自宅で仕事読書をしていた。拍子抜けするほど外は台風っぽくなく、風もそんなに吹いていない。

夕方になってから大阪に電話をした。9月28・29日に独演会をお願いしている松浦四郎若さんだ。本当なら浪曲親友協会の浪曲まつりでお会いする予定だったのだが、向かえなくなってしまったので恐縮ながら電話でいろいろご相談する。「風なんて吹いてなくて台風はどこへ、という感じですわ」と四郎若さんはおっしゃる。大阪でもそうなのか。九州に居座ったことで台風10号は予想といろいろ変わってきた。電話打ち合わせは10分ほどで終わった。これであとは当日ということになる。広告の出た『東京かわら版』をお送りしようかと思ったが、もう既にお手元に見本が行っていた。

仕事をしながら横目でちらちらTwitterを見ていたら、女性研究者におそらく男性と思われるそのジャンルの古参ファンが絡み、軒並み格の違う知性で撫で斬りにされていた。感情論でぶつかるからだ。

あるジャンルについて「基礎としてこれは押さえていたほうがいい」という前提はある。価値観の相違というような問題ではなく、ジャンルが時間と共に成長するものである以上、必ずそういうことになる。歴史的事実であるので、それに反したことを言うのは修正主義というものである。

これを、現在の成果物を楽しむのに古典の知識を持つことはは必須か、という風に置き換えたのが、かつての教養主義論争だった。私にとっては必須であった。その考え方を周囲の人にも共有してもらいたいとは思うが、強制はできないだろうと思う。歴史修正を伴わない、あるいは他人に自身の歴史観を押し付けない形でジャンルを楽しむのであれば、それは個人の受容の問題になるからだ。例えば日本史の基礎知識というような、それがあるか否かで社会性が決まってしまうような事柄であれば、それはやはり必須である。長い間かけて精度を磨かれてきた歴史知識は、誰もが共有していたほうがいい。

娯楽文化の場合、現在の成果物を享受するのにそこまで知識の共有が必要でない場合もある。たとえば21世紀以降の例だけ知っていればいい、前世紀まで遡る気はない、というような人を前にしたとき、教養を身に着けることを強要すべきだろうか。私は身に着けていたほうがいいとは思うが、強要はできないだろう。これからジャンルを知って楽しんでいってくれる人に、疎外感を与えることになりかねない。私はこのジャンルをそういう風に受け止めていて、おかげで楽しむことができている、くらいにしか言えないのではないか。他人に強制する権利などどこにもないのだから。自分の考えや主義を共有してもらえないようなことがあったら、伝え方が悪かった。力不足だった、と反省するところで止めておいたほうがいいと思う。

これが過去の教養主義論争のもやもやに対する現時点の感じ方である。ここ数日ネットで見聞してきた、自分はそういう歴史観・価値観で生きてきたので、それを脅かす者は叩くのが社会正義である、というようなやり方は相手がどのようにそのジャンルを受容しようとしているかを配慮していない点がまず駄目だ。自分のほうがもしかすると誤っているのかもしれない、という可能性に考えが及ばない点も不可で、これまで自分たちがそうやってあり続けてきたことが正しさの根拠である、というような循環論法的な自己防衛に入ってしまっている点もおかしい。仲間じゃないから攻撃する、自分たちとは違う属性だから聞く耳も持たない、というようなホモソーシャリズムに陥ると、これはもう話し合いのできる段階ではない。

自分もいつかそういう不知の病に罹患するかもしれない。くわばらくわばら。

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