木馬亭定席の千秋楽なのだが、行けず。ついに九月は定席に一度も行けずに終わってしまった。残念である。十月こそは、と思うのだが地方出張の予定が入っていてどうも雲行きは怪しい。なんとか時間を確保したいものだ。
原稿はインタビューを一本仕上げた。これによって9月に稼がなければならない金額への進捗率は14.06%、勤務評定は0.5となった。まずまずだろう。この原稿をやる以外の時間は、浪曲会などの事務処理に追われていた。これらの作業は仕事ではないが、自分のための研修なのだと思っている。決まった仕事をこなしていくだけだとどこかに慣れが生じてしまう。そこから離れたことに触れ続けることで、また自分を再発見できるのではないか。これは時間を無駄遣いしているわけではない、という言い訳なのかもしれないが。
言い訳といえば。
SNSによっていろいろな人の自意識が可視化されるようになり、ああ、この人のこういうところは見たくなかったな、と思うことが増えた。残念なことの一つが、「謝ったら死んじゃう病」の蔓延である。とにかく謝らない。自分に非があると指摘されても認めない。言を左右にしてそのことに触れられるのを避けようとする。これは自動回避なのかもしれない。反射的にその話題になると意識が曇って、聞こえなかった、あるいは理解できなかったことにしているのかもしれない。本人は論理的な帰結だと思っている可能性があるが、なに、感情的な忌避反応である。そのことは第三者が見ていればわかってしまう。
だいたいのことは一言謝れば済むものである。いや済ませてはいけないかもしれないけど、少なくとも過ちを認めることで建設的な方向に話を進めるいとぐちはつけられる。なのに自分の根本的な姿勢のおかしさに話し相手が触れるたびに、その機会を拒否してしまう。相手が何度も同じことを言うと怒り出す場合さえある。この頑なに自分を守る態度が「謝ったら死んじゃう病」の兆候だ。自分が気が付かない限り、不治の病である。
匿名ならいざ知らず、筆名なり実名なりを出しているアカウントでそれをやってしまう。おそらくは自尊心のなせる業かとは思うが、無自覚なのかもしれない。自分を守っているおつもりであろう。しかし客観的には、よせばいいところにこだわって看板を汚しているようにしか見えない。非常に残念なことである。
親しければ忠告するところなのだが、よほどの間柄ではない限りは躊躇してしまう。黙って縁を切ったことも多い。この病は自助努力では治せない。認知の歪みから生じているものだから、まず自分を否定するところから始めないといけないのである。自分の気持ちを代弁してくれない他者の言葉に耳を傾けることこそが治療薬になるはずで、実は過ちを咎められたときがいちばんの機会なのである。そこで、なぜ謝罪を要求されているのだろうか、と立ち止まって考えることができるようなら、まだ戻ってこられる見込みもある。
でも自分が大事な人は他人の言葉を聞き流すのである。耳を傾けよ、と言われてその姿勢だけして、実は自分の心の言葉を聴いている。そのループに入ったら、もう仕方がないのである。
私も昔、「謝ったら死んじゃう病」だった時期がある。発病するには至っていなかったが、自分とは違う立場の人が言うことにむかっ腹が立つことがあったのだ。それが、自分が正しいのではなくて、馬鹿なせいではないのか、と気づくきっかけがあった。あ、馬鹿だったのか、と思って、それから何かを言う前に正しさを疑うように意識し出した。あのときのきっかけをくださった方には感謝している。向こうは、私がそんなことを思っているとはお気づきではないだろうが。そういうものだ。
本日は〈スギエゴノミ〉である。アートスペース兜座(中央区日本橋兜町11-10)にて。14時~木村勝千代独演会~、18時~広沢菊春独演会。お待ちしております。