杉江松恋不善閑居 「きみをまもる」と言うけれど、力は人を傷つけることもあるものだ

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某月某日

レギュラー原稿を午前中に仕上げてしまうつもりが、思ったよりも難航する。理由は簡単で、書いているうちに楽しくなってしまったからだ。字数が自由な原稿だったらいいのだが、そうではなくてきっちり書かないといけない雑誌連載だったから困った。あっちを削りこっちを削りすると不格好になるので、書き上げた後で思い切ってトピックをばっさり落としたらうまく入った。調べたことの半分くらいが無駄になったが、これでいいのだ。自己満足のために書いているのではないのだから。

これ以外にも小さな原稿を二つ送って、合計三つ仕事を終わらせた。ある仕事について打診を受けていたのだが、条件が難しいということで保留という返事をしていた。それに対して前向きに検討するという返信をいただけたのでほっとした。合わせて勤務評定は2.5。まずまずだ。9月末までに稼がなければならない金額への進捗率は16.79%となった。上旬が終わったところで少し遅れ気味だが、月の頭はあまり原稿を書けていなかったからでもある。これから頑張る。今日はできれば三本原稿を終わらせて、ProjectTHKに戻りたい。

今月抱えている原稿は以下の通り。

【レギュラー】週刊5、月2回刊2、月刊2【イレギュラー】書評4、文庫解説1、【その他】取材2、対談1、講義1、動画制作・公開4、演芸会主催3。

ネットニュースを見て嫌な気持ちになる。ややぼかした形で書くが、問題になっている団体の主催者と前に一度会ったことがあるからだ。好きで会ったわけではなく、義理である。そのころ距離の近かった某氏に引き合わされたのだ。あまりにもマチズモな感じと、自分の力を過信しているような雰囲気があり、私はその人物をまったく受け入れられなかった。

その某氏は、何事かを成し遂げたとか、カリスマがあるとか、とにかく輝きを放っている人に強く惹かれる傾向があるようだった。言葉を選ばずに書けば英雄崇拝で、とにかく物語が好きなのである。現実世界における物語が。

現実において英雄になるというのは自分を物語化するということだ。完全無欠の英雄は虚構の世界にしか存在しないから、現実でそれをやろうとすれば、物語に合わない歴史はことごとく修正しなければならなくなる。自分の周りに集める人間は物語の肯定者ばかりになるから、批判の声が届かなくなって閉じていくだろう。感動した、と言う声ばかり聞いて過ごすことになるのである。賛美者しか周囲にいなくなったことをおかしいと思えればまだいいのだけど、そういう機会を得られるものかどうか。

最初は我慢して某氏とは関係を保っていたのだが、あるときついに辛抱できなくなった。その人物が褒め称えるのがことごとく胡散臭くしか見えない人間であったからだ。某氏とそれらの人々は別だから、と割り切っていたのだけど、怖い可能性に気づいてしまった。某氏の中で人間は二つに分かれている。賛美される側と、賛美する側だ。私も賛美される側になれなければ、そういう人間を賛美する側に回ることを強制されるのだろう。そうなるともう無理で、そんな危険な人間関係を維持することはできないと思った。

某氏がそうしたマッチョな人々を本気で尊敬しているのか、食うための方便であえてそれを装っているのかは、私にはよくわからなかった。どちらにしろ、某氏の勝手だから好きにしていい。ただ、私は巻き込まれたくないのである。マチズモは時として、人として許せない事態を引き起こすことがある。暴力の肯定がその一つ、崇高な目的のためには何をしても許されるべきであるというような歪んだ思想に陥る危険もあり、さらには仲間が間違いを犯しても無条件で庇うというようなホモソーシャリズムの砦に籠城してしまう。そうなるとはっきりと害悪である。距離は置くが、一線だけは超えないでもらいたいと思った。知っている人間がそうなるのを見るのは本当に辛い。

ああいう危険な方向に、人はなぜ行ってしまうのだろうと思う。個として見れば気のいい人物であったり、家族や仲間に優しかったりして、決して付き合いづらくはないのである。一つには、何をするにも力がなくては、みたいに考えを持ち始めると極端に走ってしまうのではないかとも思う。すべての無理を力が解決するという思想がそこから始まるからだ。そうではないところから始められないだろうか。自分に力はないけどできることだけできればいい。同じように力がないけど真っ当なことをしようとしている人たちの邪魔をしなければいい。私はそれでいいし、そういう自分の身の丈にあったことのくり返しが結局は他人と共生していく上で重要なのだと思う。力を持つことが怖いのは、それが誰かにとっては自分に向けられる刃になるからだ。自分が持った力は誰かから奪ったものかもしれないという想像ができないようになったら私は駄目になってしまうと思う。それは本当に怖い。

力のない者を力のある者が守るというのは、本当のことを言えばフィクションの中だけで期待できる物語だ。現実には、力のない者に手を貸せるのは同じように非力な者だけなのである。力のある者は、本質的なところを理解できないからだ。力のない者同士が、どうやったらお互いを思いやっていけるか、というところから私は出発したいと今は考えている。

「あなたのためにたたかう」「きみをまもる」という物言いは純粋な好意から発せられるものだろう。そこに嘘はないと思う。ただ、力さえあればいい、すべてを救うのは力であると考えている人は、本当の意味では力のない者の気持ちはわからないのではないだろうか。

ヒーローの物語は大好きだ。私はヒーローものが簡単に視聴できたり、読むことができる時代の生まれである。それを享受して生きてきたし、そこから大事なことをたくさん学びもした。今でもフィクションとしてのヒーローものは大好きである。ただ、フィクションだけで十分だと思っている。現実世界にそんな力を持った人間が出てきたら胡散臭い、怖い、と感じるのが正しい反応のはずだ。現実は白と黒で割り切れるほど単純なものではないし、日常に感じている恐怖とか不安は、英雄の力でどうにかできるものではないのである。

誰かを傷つけるほどの力は要らないと、いつも肝に銘じておきたい。

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