杉江松恋不善閑居 「さわり」はイントロという意味ではない

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

某月某日

ProjectTHKに専念したいのだが、目先の〆切を無視するわけにはいかず、もやもやしてはどちらにも少しずつ手をつけ、虻蜂獲らずに終わることが続いていた。なので思い切って、商業原稿をまとめて片付けてしまおうと決意する。一日で三本を終わらせた。この原稿料により9月末までに稼がなければならない金額への進捗率は22.65%となった。また、新しい仕事の依頼メールも2本入る。勤務評定としては3.5である。働き者の一日だ。

今抱えている仕事はこんな感じである。

【レギュラー】週刊3、月2回刊1、月刊1【イレギュラー】書評4、文庫解説1、【その他】取材2、対談1、講義1、動画制作・公開4、演芸会主催3。

だいぶ減った。

仕事の途中で本も読む。某書を最後まで読んだら、あとがきでまた気になる言葉遣いを見つけてしまった。「さわり」を序盤とか導入部の意味で使っている。SNSの投稿なら別に目くじら立てる必要はないのだが、一応編集者と校閲者の目を潜り抜けているはずの文章なので嘆かわしいと感じる。国語辞典を引けば項目には「義太夫節の中で一番の聞かせ所とされる部分。広義では一つの話の中で最も感動的な場面を指す」というような意味が書いてあるはずだ。つまりイントロではなくてサビなのである。これは常識だと思うが、言葉のプロでもしばしば誤用しているのを見る。

こんなことを書くと嫌味っぽく聞こえるかもしれないがお許しいただきたい。あえて書いたのには理由があって、先般朝日文庫で復刊された佐宮圭『男装の天才琵琶師 鶴田錦史の生涯』(旧題『さわり』)に興味深い文章があったからだ。

三味線や琵琶に詳しい方なら、さわりが何かはご存じだと思う。振動する弦が楽器の一部に微かに触れることから生じる音で、琵琶はこのさわりによって、蝉が鳴いているような命ある響きを出すこが良しとされた。

この本の第六章に「さわり」の語義に関して触れた箇所がある。最初に挙げられているのは上に書いたサビの意味で、これは歌舞伎の幕に近づけて説明されている。二番目の意味が、私は浅学にて初めて知ったので、知識を共有したいと思う。こう書かれている。

――邦楽においては〈他の流派を使った部分〉を指す言葉でもある。主に義太夫において、説教節や一中節など、ちがう流儀の節が使われている部分に対して「そのさわりを聴きたい」などと使われる。(後略)

そういう意味があったのか、と目からうろこが落ちた気持ちがした。上の辞書は、義太夫の「聞かせ所」としてさわりを説明したのだが、より狭義では「他流儀が入っているから聞かせ所である」という認識なのだろうか。このことを知らずに邦楽関係者の前でさわりについて口にしたら恥をかくところだった。玉川太福さんが玉川の節で唸る前に「広沢虎造の節でちょっとさわりを」と道中付けをやる場合がある。あれは語義としてとても正しい、さわりなのである。知らなかったな。

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存