朝から気合を入れてProjectTHKに取り組んでいたのだが、どうにも進みが悪い。袋小路に行き当たってしまったのだ。編集担当の古翠さんと相談の結果、入稿日を少し遅らせることにした。徹夜でもすれば間に合わないこともないのだろうが、十分推敲していないものを世に出してしまうかもしれない。品質が第一だと判断した。というわけで、現時点で進捗率は66%。あと少しのところで止まっている。焦っても仕方ないのでまた頑張る。
そうやってうんうん唸っているところに大島暁雄『上総掘りの民俗』(未来社ニューフ・フォークロア双書)が日本の古本屋から到着した。ProjectTHKを書いているうちに、もしかすると上総掘りについて調べる必要があるのかも、と思うようになり注文したのである。
結論から言うと、どうも『上総掘りの民俗』は使わなくても済みそうだ。そういう意味では要らない買い物をしたことになるが、上総掘りについて調べることは無駄にはならないはずなので、手が空き次第目を通すつもりである。熟読ではなくてもいいのだ。そこから何か得られるものがあれば、本を買った意味は十分にある。学術書はネット記事のように要点重視で書かれておらず、それらが文脈を伴う形で配置されている。仮説検証から結論に行き着く流れそのものが重要な情報なのだ。だから一度読んでおけばそれは断片的な知識にはならず、体系として得ることができる。本を読んだときに得た知識そのものは忘れてしまっても、それがどういう骨組みで紹介されていたか、という記憶は残るはずだ。索引だけ頭に残してあとは本という外部装置に記憶させるようなものである。そうだ、早く読め、と『上総掘りの民俗』が言っている。
私にとって本は呪具である。呪いをかけてくるものだ。その本から発せられる声に耳を傾け、ページに目を向けろ、と圧力をかけてくる。本を手に入れるというのは呪いとの契約であり、無数の呪いに自分がからめとられているのを感じる。本が届くのは新たな呪いに縛られることである。本が届いた、また呪われた日になった、と私はいつも思う。
9月28・29日は松浦四郎若2DAYSです。まだご予約されていない方、ぜひご検討ください。