本に関する行為となると、買う、借りる、開く、読む、閉じる、しまう、ということが一般的だろう。だいたいこの順番で本を取り扱う。内容によっては、あがめる、だったり、踏む、だったり。
多少の誤差はあってもだいたいこの順番のはずである。
私は書評を生業にしているのでここに、開ける、が入ってくる。
出版社から献本されてくる包みを開けるわけだ。これが日課になっている。
包みのありようはさまざまだ。いちばん多いのは、厚紙の封筒に一冊だけ本が入って送られてくるやつである。本は合成樹脂の袋で包まれていることが多いので、これも開ける。 本には、乞御高評、とか書かれた短冊がだいたい挟まっているので、開けたらそれを最初に抜く。版元からではなくて、著者から直接献本されている場合もある。そういうときは、おっ、と思う。
できれば、開ける前に書名はわからないほうが楽しい。開けてから、実物を見ていろいろ感心したいからだ。送本作業の都合だろうけど、たまにラベルに書名が記されていることがある。それを見ただけで納得してしまって、後回しにしたりする。さすがにいつかは開けるのだけど。
短冊だけではなくて、概要を書いた紙が入っていることも多い。何かの受賞作だったり、誰かの勝負作だったりするときはだいたい入っている。その紙に担当編集者の名刺が留められている場合もある。おお、力が入っているのだな、と思う。さらに編集者の肉筆で手紙が添えられていると、ああ、熱意をわかってもらいたいだな、と思う。読んで、熱意はわかるがなぜそれを私に言ってくださるのかはわからないなあ、と感じることもある。
某社の某さんは熱の入った一筆を添えてくることで有名で、あるとき、ワープロ打ちだがこの手紙が五枚も入っていたことがあった。たぶん八千字くらいはあったはずだ。その本の作者と公開で対談する催しがあったので、八千字を持っていった。会場で、担当編集者の某さんはとても熱意のある人で、長い推薦文を添えて見本を送ってきてくださったんですよ、と言って朗読を始めたら、後ろの方で急に立ち上がった人がいた。某さんだった。こっちを見ている。構わずに文章を読み続けると、そのまま扉を開けて、どこかに逃げていってしまった。ぴゅうっと風のように。
本の包みを開け続けて何十年。本以外に小判が入っていたことはまだない。あっても困るけど。
(掲載時期不明。書肆侃々房のフリーペーパー「あける」特集に寄稿したものです)