杉江松恋不善閑居 町山智浩氏の故・唐沢俊一氏分析に引き寄せて

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某月某日

秋季例大祭原稿でかなり追いつめられている。現在の進捗率は47.5%というところ。

ここ数日切羽詰まった商業原稿をやらねばならず、昨日から今朝にかけて2本を送稿した。これによって10月末までに稼がなければならない原稿料への進捗率は23.73%に達した。遅いがまずまずという成績か。先週末から新しい仕事の依頼が相次いでおり、昨日も一件あった。これまでのものとは毛色が変わっているので、ちょっと冒険する意図もあってとりあえず受けるという返信をしておいた。さて、どうなるか。業務評定はこれで2.0ということになる。

今日はこれから秋季例大祭原稿に没頭するが、その前に書いておきたい。水道橋博士・町山智浩が唐沢俊一氏について語る対談動画を遅ばせながら視聴した(以下、故人以外は敬称略)。町山総括はだいたい私と一緒で、と学会との関係などは知らない情報もあってアップデートされた印象、唐沢なをき『まんが極道』への言及もあって過不足なかったように思う。水道橋博士の認識は思ったよりも一般読者に近くて、サブカルメディアの人といえども出版業界そのものではないから、そこの感覚は違うのかな、と思わされた。もっとも、役割分担でわざとそう発言していた可能性もある。

総括で町山が、唐沢俊一氏の苦境は雑誌文化が衰退して特に60代以上のライターは仕事の場自体が失われていることにも根本的な原因があると自説を語っていた。もちろん、唐沢氏自身に起因する部分を除いての話で、そうした形で話を普遍化させたわけである。かつての植草甚一がそうであったような総合的な雑文家はもう成立しえない、つまり文化人のスターがライターという職業から生まれる余地はないということを示した。

感心したのは、唐沢氏は何か書きたいことがあったわけではなく、植草甚一や草森紳一のような雑文家の肩書が欲しかったのだ、という分析だった。これも普遍化して言えば、唐沢氏だけではなく、1980年代からぎりぎり1990年代前半までに物書きになった人の多くが同じような憧れを持っていたはずである。

町山氏の指摘に沿っていえば、文化人になりたいという夢だけでライターになること、さらにそれを続けることは難しい時代になったと思う。文章ではなくて肩書きで食うというやつだ。書きたいことがある人間、書きたいという衝動がある者だけがライターをやるべきである。そうでないと、この仕事は続けていけないし、続けるための戦略も立てられない。

現在も文化人スター的に売れ、メディアから重宝されるようになるライターは、毎年一定数出る。だが、それがどの程度続くかについては、私は悲観的な予測をしている。旬が過ぎると人選は切り替わるのではないか。担がれた神輿から下りたくないために空花火を打ち上げ続ける人を過去にも何人か見てきたが、それは悪手だから止めたほうがいいと思うのである。

ライターという職業がいつごろ成立したものかははっきり言えないが、今活動している人の多くはバブル経済期のデビューだと思う。つまり右肩上がりの時代だ。神輿に乗せてもらうこと、文化人のスターになることが理想だというのは、出世していって単価の高い仕事を掴むというプランと言い換えられる。肩書きだけでお金が入るというのは実に単価の高い仕事である。一部ライターの、アカデミズムへの就職もこれに近いものだと私は感じている。いや、アカデミズムは今厳しくなっているのだけど、バブル経済期のそれということだ。そのころであれば、編集プロダクションを作って社長に収まるという道もあった。人を雇って企業の長になるということである。

文化人スター、アカデミズムなどの名誉職、雇用主。これらに共通するのは、書かなくていい、ということだ。ライターとしての「あがり」なのである。1990年代に入り、どうやらバブルの夢が戻ってこないらしいとわかってきた時点で、「あがり」を夢見るライターは多くなったという実感がある。とある先輩書評家が、「将来のことを考えたら小説家になるしかない。これだけ読んでいるんだから小説くらいは書ける」という意味のことを目の前で言って、軽蔑したことがある。理由は面倒くさいから書かない。

私もいろいろ試行錯誤をしているので、おまえも「あがり」たいくせに、と言われそうである。一応書いておくけど、そのつもりはない。あくまでもライターとしての活動が軸にあるのであって、いろいろなことはそれとは別物でやっているのだ。

また、自分に文化人スターの資質はないだろうな、ということも認識している。以前北尾トロさんが「レポ」というミニコミ誌を出していて、メールマガジンも発行していた時期があった。そこに「実券でヨロシク」という短い連載を持った。

イベントで人気のある演者には二通りある。一つは実券の人気、つまりその人の名前があるからお金を出してチケットを買おうと思ってもらえるということである。もう一つは会場人気、名前でチケットを買うほどではないけど、その人が出ていれば嬉しいというものだ。実は会場人気しかない演者が、自分には実券人気があると勘違いすると悲劇が起きる。増長慢になり、身の丈以上に遇されることを望むために他人を恨むようになるからだ。「実券でヨロシク」を書きながら私は、自分にあるのは会場人気で実券人気ではないな、と判断するようになった。そうせざるをえなかった。

「あがり」を望むライターの多くには実券人気はない。会場人気だけである。それを認識しないから無理なことを考えるのである。私は、会場人気しかない者に要らない地位や役職を与えるべきではないとも思う。それはジャンルの質を低下させる元だ。

話を戻せば、町山が言及しているのはそうしたタイプの右肩上がり志向、単価の高い仕事を求めて最終的には「あがり」に行き着きたいと願うライターなのである。それはたしかに、2020年代には生きていけないと思う。単価の高い仕事はどんどん減っていくし、「あがり」の場所は少なくなる一方だからだ。そういう戦略で生きていこうとしていたライターは食えなくなると思う。理の当然である。

食っていけるのは自分には「あがり」はないのだと正しく認識し、与えられた場所でできることをやって生活するだけの戦術を立てていけるライターだと思う。コツコツやるしかない、と言ってしまうと身も蓋もないが、真実だ。そしてそんな苦労をするなら他の仕事をしたほうがいいと思う人はライターになるべきではない。書きたいものがある人間だけなればいい。

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