実券でヨロシク5 「馬場さん、オコメ(前借り)ごっちゃんす!」(天龍源一郎)

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

杉江松恋不善閑居の10/11付記事で書いたが、私は2010年頃に北尾トロさんが当時刊行していたミニコミ誌『レポ』に参加した。その『レポ』が〈ヒビレポ〉というメールマガジンのようなものを出すことになり、執筆陣に声がかかった。その折に、じゃあ杉江松恋というライターが今何を考えているかを書きます、といって全13回で連載を始めたのがこの「実券でヨロシク」である。たぶん2012年頃だと思う。原稿がごっそり出てきたので、一気に掲載してしまう。当時はそういうことを考えていたんだ、と懐かしく読んだ。参考になるかどうかわからないが、2010年代の話としてご覧いただければ幸いである。

画像はサークル〈腋巫女愛〉過去作表紙から(赤色バニラ・くまさん画)

=====

まず、この数字を見てもらいたい。

2004年度

A:15.0%,B:14.6%,C:28.1%,D:27.6%,E:13.7%,F:1.1%

2006年度

A:18.8%,B:31.9%,C:33.2%,D:11.1%,E:4.9%,F:0.0%

2008年度

A:21.9%,B:22.1%,C:39.5%,D:8.8%E:6.6%,F:1.5%

2010年度

A:26.0%,B:22.2%,C:32.0%,D:8.1%,E:11.7%,F:0.0%

2011年度

A:17.9%,B:19.8%,C:35.3%,D:12.6%,E:7.3%,F:7.1%

これは何かというと、ライター・杉江松恋の収入元を会社グループ別に分けて金額のパーセンテージで表したものなのである。

Aは、いちいち社名は上げないが総合出版の最大手の数社、Bは、Aには含まれないが文芸部門のある総合出版社である。Cは、一部Bと重なる。何かといえば、仕事を最初にもらったときに知人などのコネがあり、その後も継続して連載などをもらっている会社なのだ。言うまでもないが、最初はこのCの仕事が最も多かった。こうした記録をつけ始める前の1990年代後半は、比率でいえば70パーセントは超えていたはずである。それをいかにして下げるか。もちろんCの仕事量を減らさず、相対的に依存する比率を下げていくということを私は駆け出しのころ目標に掲げていた。もちろんその中でも最大手であるAの仕事の枠を取っていくべきなのであり、あわよくばそこに仕事の比率の大半を移してしまおう、というのが私の野望であった。

2004年から2010年までの推移を見ていくと、Aの比率が増えていることがわかる。ここでは比率のみで具体的な金額は書いていないが、総収入(利益ではない)は、この期間の中では2006年が最高でそこから減少に転じた。今のところは、2010年が底である。その中でAの分の収入額は2010年が最高なので、比率と同様で一応その年までは増加していたのである。

Aほどは大規模ではないが文芸をやっているという意味ではやはり重要なBは、2006年が最高で、それからは減少していっている(これは金額でも同様)。私の実感では、前回書いた入院の年、2007年までは自分も営業をかけただけ仕事が増えていたし、連載をしていた雑誌が潰れるというようなことも少なかった。2007年になって急に不況が身辺に迫ってきた感覚があるのだ。そのことは数字の上でも如実に示されているように思う。2006年から2008年にかけての大きな変化の特徴はは、Bが急減したことである(Aまで減らさなかったのは、我ながらよくがんばったと思う)。その分の穴は、なんとかCで埋めることができた。というかCに救ってもらったようなものである。ありがとう! しかし、さらに景気は悪化し、2010年を境にしてAも減少に転じた。Cの枠がなかったらどうなっていただろうか。

比率が小さいもののうち、Dは文芸が主ではない出版社や編集プロダクションだ。2004年のDの比率が大きいのはノベライズの収入があるからなのだが、それ以降はほぼ横這い傾向にある。ただ、口数は減少した。Dの仕事先の数は、2004年が13、2006年が7、2008年が9、2010年が10、2012年が7と、じわじわと少なくなっているのである。昔であれば外注に頼めた仕事を内部でこなしたり、Dの会社を根城にしているライターががんばって仕事を増やしたりする(私の場合のC)ケースが増えているのではないか。

Eは書き物以外の仕事で、映像メディアに出たり、司会や講師などのしゃべりを頼まれたりしたものだ。変動が大きいが、そういう仕事のレギュラーを数多く持っているわけではないので仕方がない。現在CS放送で月のレギュラー番組を1本持っているのだが、それが無くなればもっと不安定な感じになるはずである。

最後のFは、紙媒体以外のメディアの書き物である。2011年に大きく増えていることがわかるだろう。他の媒体で仕事が減っているのに大きく収入を減らさずに済んだ最大の理由がこれだ。WEBサイトの仕事を大幅に増やすことにより、紙媒体の穴埋めをしたのである。この比率を2012年にどうしていくかで、杉江松恋というライターの収入形態は大きく変わっていくはずだ。

前回のこの欄で、2007年に入院をしたことを書いた。当時はそれほど自覚をしていなかったが、「可能な限り仕事を増やす」という目標を掲げ突き進んでいった結果、体には相当を無理をさせていたのだるう。上の一覧で言うところのBを増やそうとして闇雲の原稿を書いた。その結果『バトル・ロワイアル2』のノベライズ以降では最大の収入を得ることができたのだが、やはり健康という資本を目減りさせていたのだった。健康の前借りをして仕事を続けていたのだとも言える。

入院生活の初期には、まだ病状がそれほどひどくなかったので外出許可をもらってタクシーで10分ほどの距離にある自宅に戻り、原稿を書いていた。私の仕事は書評が中心なので、本が無い場所では執筆できないからだ。だが、手術後は外出を禁止されてしまった。それ以降は妻にノートパソコンを借りて病室に持ち込み、家に来る新刊を定期的に病院に運んでもらってベッドの上で原稿書きをしていたのである。ただ困ったのはゲラの受け渡しだ。原稿はメールで送ればいいが、ファックスでやってくるゲラを受け取ることができない。仕方がないので、何人かの編集者には病院まで来てもらい、その場で赤を入れた。それまで直接会ったことがなくメールだけで仕事の依頼をしてきた編集者もいたので、むさくるしい姿での初顔合わせになってしまい恥ずかしい思いをしたものである。「男性の同僚にお見舞いは何がいいか聞いたら、グラビアのある雑誌がいいと言われましたー」と、当時はまだあった「sabra」を持ってきてくれた女性誌の編集者もいたっけ。いや、ありがたかったんですけど、小説のほうが嬉しかったな。いちばん困っていたのは、新刊書店の棚をチェックできなかったことだったから。

入院生活は2007年8月11日から約40日間に及んだ。その間もっとも心配したのは「連載仕事に穴を空けてしまうのではないか」ということである。いや正直に言うと違う。「連載に穴を空けることにより、代理で入った誰かにその枠を取られてしまうのではないか」ということが心配だった。

本宮ひろ志は、先輩の漫画家が休載したおかげで代理原稿が誌面に載ることになり、デビューを果たした。その経緯から、絶対に自分は連載を休まない、と心に決めていたそうだ。自分と同じような誰かが、その空いた枠に入りこんでしまうからである。このエピソードを本で読んで以降、本宮と同じように自分も絶対場所を譲るまい、と私も心に決めていた。入院している間も、ずっとその気持ちを抱き続けていた。ベッドに横たわりながら、常に頭の中では陣取り合戦を続けていたのである。これじゃ体にいいわけないよ(植木等の声で)。

(つづく)

今回の「実券予定」(当時)※省略

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存