月曜日も一日仕事読書と書き物で終わった。それだけだと何も進展していないように見えると思うが、単発仕事を二件と書籍企画を一件提案するメールを送ったので、まあまあ前に進んだのである。というわけで勤務評定は3.0。
私は集団生活が肌に合わなくて、会社にいないと勤務していることにならないというルールを拒絶して十年間で勤め人生活を辞め、今の暮らしに入った。初めのうちはわからなかったが、やがて思い知らされたのが、フリーランスこそ人付き合いをよくして仕事の機会を獲得しないといけない、という当たり前の事実だったのである。
私はバブル世代の端っこにいたから、こつこつやっていけば年収は右肩上がりになるというのが考えの基本にあった。少し足踏みをしてしまうと、努力が足りないのではないかと思い、さらに人脈作りや営業などを頑張る気持ちになった。それは違うのではないか、と気づいたのは、だからだいぶ後のことである。
右肩上がりに私の収入がなるのは、競争で他人を追い抜いたのでなければ、業界全体が拡大しているということである。いや、他人を追い抜いたのだとしても、年齢を重ねれば立場が強くなって収入が増えるという保証はないはずである。ベテランほど報酬を弾む、というような仕組みにこの業界はなっていないからだ。もちろん信頼を勝ち得ている人に仕事は集まるから、年齢を重ねれば量的な拡大はある。だが、原稿料という質的な拡大はないのである。右肩上がりにはならないんじゃないか、とかなり時間が経ってから気づいた。遅い。
収入は黙っていても増えない。こちらから動かないと新しい仕事はこない。それに気づいたのだ。遅い。フリーランスの基本だよ、それは。
私の上の世代はそれでも好景気の恩恵を被っていたはずで、自分から動かなくても知名度が上がれば自然と仕事はどこからか降ってきた。しかし私はメーカーにいて、右肩上がり神話が壊れていく場面を目の当たりにしていたのである。にもかかわらず、自分のいる業界が拡大せず、たぶん縮小するだろうということに気づかなかったとは。危ないことである。
縮小する市場において重要なのは、今あるものに固執しないことである。今の収入源になっているものはいつ消滅してもおかしくないと考える。そのためには仕事の幅を増やすと同時に、仕事をさせてくれる人間関係の幅も増やさないといけない。常に新しいところに乗り換える準備をしながら仕事をしないといけなかったのだ。
特に人間関係の幅を増やすことは大事だったとこの年になってつくづく思う。編集者は勤め人だから異動するし昇進する。最終的には停年にもなるだろう。つまり自分の前にいるのはごくわずかな期間で、数年経ったらいなくなってしまうのだ。そうなったときにどうするかを絶えず考えていないといけない。
とりあえず私にできるのは書評だし、文獻を元にした書き物以外の能力はない。他メディアに呼ばれて、たとえば番組に出演したりするのも、元はそこなのだ。文獻を読まずに時事問題なんかに言及することは私にはできない。見誤ったことはないが、それだけでお金を稼ぐことには制限がある、という事実も思い知らされた。書評その他の本の世界は非常にパイとしては小さく、外側に文字通りのマスメディアがある。そこに首をつっこむためには「あまり本を読まない人たち」を相手にしなければならないのである。これは、たとえばテレビの視聴者などを揶揄しているわけではなく、その作り手の方だ。テレビの作り手はテレビが好きなのであって、本は別にどうでもいいのである。好きかもしれないが、仕事の必要条件とは思っていないのである。そこで仕事をしたいか、と考えて否、と答えを出した。
本を中心とする世界でしか自分は生きられない。これは信念とかそういうかっこいい話ではなくて、単純に本しか知らないからである。出自がそうだから、今さら付け焼刃でそれ以外のことはできない。本の世界で生きていくか、もしくはまったく違う分野に転職するか、である。そして、勤め人生活は私は大嫌いだ。
この世界で生きるしかないではないか。でも、狭い世界の中で人脈を増やしたり、健康を犠牲にしてがんばったりしても限界がある。まったく違った観点から努力の対象を探さなければいけない。
そこで思いついたのが、自分で世界を拡張することだった。拡大はしないが、拡張はする。自分の居場所として考えている本の世界を、他の人が思いもよらなかった方向に少し広げてみる。うまくいけばその中で需要を掘り起こせるかもしれないし、別の人にも仕事を与えられるかもしれない。うまくいけば、だけど。うまくいかなくても自分の独り相撲だから他人に迷惑をかけることもない。それでやってみよう、と思った。うまくいっているのかどうかは自分でもよくわからないのだが、とりあえず単著は出しているし、間違ってはいないのかもしれない。間違ってはいないけど先もない、という可能性はまだある。あるよねえ。