杉江松恋不善閑居 俺が俺がという人の方が客は呼べるがそれは性に合わない

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某月某日

前日の慌ただしさに疲れてしまったものか、どうにも士気が上がらずに目先のことだけをこなして終わった。夜は池袋コミュニティカレッジの講師。そういう日もある。勤務評定は-1.0。

週末にある浪曲「じゃりン子チエ」真山隼人独演会の準備もあって、あたふたしている。それが終わったらまたいろいろ考えようと思う。とにかく7日の公演である。

昨日FMTOKYOに出させてもらって思いだしたことがある。

私は2010年代の初めにトークライブを定期的に行っていた。依頼してくれる人があったためで、その人の言うには何人かのレギュラーを取り揃えて、音楽、政治などそれぞれの専門でトークライブを行うと。ゲストをどうするか、などの裁量もそのレギュラー任せで、要するにラジオにおけるパーソナリティの役割をしてもらいたいということだった。その人とは後に意見が食い違うのだが、このトークライブはCSだかBSだかで定期放送も検討しているという話があり、ならば集客を気にせずスタジオ中継のような形でやれるか、と思い出演を承諾したのだった。後から、いや、そういう予定はなかった、と言われてしまうのだけど。

実際に始めてみたら大変だった。採算ベースに乗せるためにその人も苦労したと思う。なにしろ、当初声をかけたレギュラーのうち、ほとんどが結局参加してくれなかったのだから。なんとか意気に応えようとして私も奮闘したが、集客ができないのである。しろうとの喋りにお金を出すかと言えばそんなことはないわけで、これは私が実券人気を持っていないのが悪かった。同じことを別の人がやれば、たとえば宇野常寛氏あたりだったら毎回満員になったと思う。今のゲンロンみたいなものになった可能性はあるだろう。

実力不足と言うしかないのだが、方針にも無理があった。私は基本的に聞き役のつもりだったからである。トークライブというより公開インタビューだ。私には特に言いたいことがなくて、逆に人に聞きたいことはいっぱいあった。おもしろい人を呼ぶからお話を聞きましょう、というのが私の参加姿勢だった。それはお客には訴求力がなかったわけである。私は言いたいことがあるから来てください、の方がたぶん人は呼べる。ゲストが誰であろうと、まず言いたいことがある人がいることが大事なのだ。でも私は俺が俺がの態度は好きじゃないし、あのトークライブ企画は人選の段階で間違っていたと思う。

今YouTubeで「杉江松恋チャンネル ほんとなぞ」をやっていて思うのだが、今は言いたいことがあるのである。隙があれば話してしまいたいことがたくさんある。浪曲や肥後琵琶、瞽女などの芸能関連、全国の古本屋の話、もちろん犯罪小説のことなど、話していいと言われたら1時間くらい平気で続けられる話題がいくつもある。あのころはそれがなかったということだ。

一口で言うならば、時期尚早だったということである。人に話を聞いてもらい、なおかつお鳥目まで頂戴したいと思うなら、語り芸を磨くか、自分の中に素材を溢れ返させるか、どちらかだ。未熟であったのだな、と改めて感じた。

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