杉江松恋不善閑居 定義が共有可能な場合にのみジャンルは意味を持つ

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某月某日

単語ではなく文章で考えるということ。

その大事さを最初に意識したのは、大学時代のゼミにおける議論だった。その日、卒業論文執筆に向けての発表を一期上の四年生が行ったのだが、一人の内容に対して指導教官が厳しい意見を述べた。

発表はいわゆる母原病に関することで、現代の宿痾はすべて母子関係の歪みにあるという主張だった。指導教官からの指摘は、母と子の関係がすべて核家族モデルで考えられるとは限らない、具体性を欠いて思い込みを主張するだけのものは論文としては認められないという厳しいもので、結局その学生は放ゼミになった。認められない論文を提出しようとして、拒絶されたのである。

オヤカタ・コカタという言葉があるように、日本の親子関係は血縁のない同士をも含むものとして意識されてきた。現在の限られた期間だけを俎上に載せ、何が正しい、何は間違っていると主張することに、ジャーナリズム的な煽動の効果はあっても、学術的な意味はあるのか。教授が言いたかったのはそういうことだと思う。その四年生はまったく理解できなかったようで、放ゼミは当然のことだった。

ジャンル、分類に拠る態度は、その背景にある流れを考慮に入れないとまったく意味がない、と私が考えるのはそういうことである。表面に見えていることだけで行われた分類は、あくまで便宜的なものに過ぎない。黒い犬と白い犬がいます、と言っているようなものだ。その黒と白は皮一枚の区別に過ぎないだろう。

ジャンルに意味が生じるのは、定義が施され、それに基づいて分類が適切であるか否かを議論するような場合である。たとえばAという作品とBという作品のどちらが本格として優れているか、という議論は成立する。議論の前提として考えられている本格観が各自に共有されているか、もしくは違いがあっても対話によって相互に修正が可能だからである。ジャンルに関する議論とはそういうものであるべきだ。

また古い話で恐縮だが、学生時代にディック・フランシスがハードボイルドに分類されうるか否かという話になったことがある。極めて一人称に近い視点の主人公が困難に遭遇する克己心の物語ではあるが、私はいわゆるハードボイルドではないと考えた。ディック・フランシスの主人公は己がどのように身を処すかということを第一義に考える。それは冒険小説に属するものではないかというのが理由だ。

そのときはまだ明確な定義は自分の中でできていなかったが、私はミステリーというジャンル内で言うところのハードボイルドは、犯罪小説の性格を帯びるものだと考えている。犯罪小説とは、本質的に対立する個人と社会の関係を個人の側から見たものであり、いかなる視点によってそれが行われるかによって作品の性質が規定される。一人称一視点を採用した作品が狭義のハードボイルドと呼ばれてきた歴史がある。個人という無力な存在が社会という全体に立ち向かわなければならない状況設定こそが肝要であって、そこから生じるロマンティシズムは副次的なものに過ぎない。ハードボイルドの私立探偵小説とは、個人がいかなる形で犯罪に関与したかを描くものなのだ。ディック・フランシスの主眼は冒険を描くことにあり、さまざまな社会現象が題材として扱われていても、個人と社会の関係を透視しようとするものではないだろう。これは作品の欠陥ではなくて、単にそういう性質だということである。

と、いうようなことをきちんと文脈で説明できない限り「本格」「ハードボイルド」と言ったジャンル分けの言葉に意味はない。まして初心者向けのガイドで、ミステリーには「本格」「ハードボイルド」と説明することには、先入観を植え付ける弊害しかないだろう。犬には黒いものと白いものがいます。それがどうした、ということである。

そういう考え方なので、『名探偵と学ぶミステリ』のガイド部分ではジャンル分けに関する記述は最小限に留めた。若い層の読者はジャンル分けにそれほど拘っていないのではないか、という考えもあった。(つづく)

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